・他人の猫   

 拝殿の内部で燻る煙。
 紫煙を肺におさめて二秒程息を止め、吐き出すと軽く舌打ちをしていた。
 己の思考が忌々しく思える。関口のことが、頭から離れない。
 蝋燭の燈が揺らめいて仄かに闇を照らしていた。御神体の御鏡が、鈍く光を反している。
 雨脚が酷くなる。湿気が体に纏わり付いている。
 ――久遠寺に対しての関口の激情を見過ごせないのは、少しなりとも下心に似た気持ちを抱いている所為かも知れない。
 今回のように関口が何かに強く執着するのを初めて見たのである。だからなのか、久遠寺に執着し、過去を思い出し、こちらを見ようともしない関口に喉がひりつく様な苛立ちを覚えずにはいられない。
 関口が何故、こんなにも久遠寺を巡る一連の事件に囚われているのか、知りたい。
 知らない事実や妄念が其処にはあるのだ。
 しかし、関口の妄執を誰にも分けては遣らないのだ。僕だけがひっそりと知り理解し関口と秘密を共有し――訳知り顔で受け止める。きっとそれだけで僕らは変わるのだ。
 関口の夢を見ているような、どこか焦燥しているような表情は好きではない。
 何か良からぬことが起こる先触れに思えるからだ。
 この前の関口は正にそういう表情だった。
 日常と非日常の境で、常はどちらにも付く事が出来ず揺れている関口が、非日常からの手招きを受けて微か其れに酔っているといった風体。久遠寺が弾ければ、それに執着していた関口も共に弾けるだろうと予感させる。
 しかし誰であろうと、関口を連れて行かせはしない。彼は僕とずっと一緒に人間でいなければいけないのだ。
 関口からの話や敦子からの情報や榎木津の幻視を信じる限り、まず間違いなく久遠寺家は近い将来、破綻を期する。
 其れはそういう種類のものであり、ゆっくりと核心的に歩み続けていたのであり、その歩みは今更如何する事も出来ない。
 歩みが止んだ所が終着地点で、其の場で破裂するだけだ。余人が首を突っ込もうと突っ込まなかろうと終わりは近いのだ。その結果は誰にも変えることが出来ない。
 ならば、これ以上関わりを持つ輩は思慮を欠いた愚か者であり、痛みを想像する事が出来ない人間である。
 しかし、そうまでして関わりたい差し迫った理由があるというのなら全く話は変わってくるが、僕には生憎とそういった理由はなかった。それ以上関わる理由も無ければ義理も何も無い。
 付け加えるなら――明日には、久遠寺家に木場達、警官が突入するという。
 家宅捜索だ。一族の秘密が第三者により解体され、騒動は終息するだろう。
 おかしな形で弾け飛んで仕舞うよりも余程善い。
 関口もまだ正常を辛うじて保っているだろう。警察の手により日の光の中、白々と秘密が暴かれれば関口の眼もそれで覚める。強制的に非現実のビジョンにピリオドだ。

 雨脚は疾うに緩まり、密やかに涙するような雨音が、止んでいる様に感じた。
 背後にチラリと視線を泳がすと、雨から霧への変わり目であった。

 関口の事を考えるともなく、考えながら喫い差しの煙草の本数を増やす。関口の事を考え続けると確実に体が悪くなりそうだ。せめて、僕の周りをうろちょろするのを止めてくれると、煙草の本数も減る。

 劣情が囁く通りに、理性を丸め込み関口を犯せば満足するのだろうか。いや、多分、満足など出来ないか。
 手元で飼おうかいっその事。鈴付きの首輪を掛けて。――僕の性癖を刺激し続ける、関口が悪いのだ。
 漫然とした自分の思考の筋道が、可笑しかった。
 そんな利己的な感情だけは素直に持てる自分に自嘲気味になっていると――足音。
 こんな夜更けに。
 不安定な足取りで石段を上がって来ている。
 誰だ――など思うのは無駄な詮索だ。
 僕には予感がした。直ぐに判った。
 丑三つ時に神域へ足を踏み入れる愚か者を罵るごとく急に雨音が。雷鳴が。
 響かない細い声を聞き取る耳。
 もう一度、響かない声を張り上げる。
 名を呼ばれた。

「おい! 京極堂! 私だ、関口だ――」

 愚かで愛しい劣情の対象。何故君が此処に来る。此処に来る必要は無いというに。もう事件は終わるんだ。
 関口は盲目的に拝殿の戸を叩いた。
 ガタガタと頑丈な木戸が音をたてて揺れる。馬鹿みたいに叩くんじゃない、手が傷つくだろう。
 私は背後に視線を向け、関口を見据えた。目の色が、違っている。僕は溜息を吐く。
 取り憑いたのは姑獲鳥か――久遠寺の女か。いや、同じことだ。
 関口は縋るように手を伸ばし、紙切れを押し込む。埋まり掛けた泥の中から這い出そうともがいている様にも見えた。


 ――夜が明けて二時間。現在午前五時過ぎ。
 書斎から戻って来てみれば、関口は畳の上で寝ていた。
 座敷で丸まって眠る関口の背中が、浅い呼吸に上下している。安堵半分、残念な気持ちが半分、その背を眺めながら座卓に肘をつき、煙草を咥える。
 拝殿で対峙し、激情をぶちまけた関口は、座敷に上がってからは明らかに朦朧としている風だったのに、不安だったのか状況判断が出来ていなかったのか興奮していたのか、休んで良いと声を掛けても眠らなかった。用意した風呂には黙って入った。それが、床を整えていた少しの間に、畳の上に横たわって背を丸めて眠ってしまっていた。糸が切断された操り人形の様に身動き一つしないから、相当深い眠りのようである。関口は昼近くにならないと目を覚まさないだろう。
 咥えたままだった煙草の先へ、マッチで火を点した。
 夜明け前、関口を座敷に上げた。まるで抜け殻のように覇気も無く、疲れ切って朦朧とした関口は、いつにも増して、胡乱な反応しかなかった。だが、本日の久遠寺家で行う、憑き物落しについての重要な条件と事務的用件は、何としても覚えていて欲しかったので、ゆっくりと咬んで含めるように話した。
 ニャアとも云わない。猫に話し掛けるよりも悪いと内心毒づいた。
 幾らか関口を詰っておけば良かったと今更に後悔した。関口は悔しそうな表情をする時が一番そそるのだ。

 関口の姿は、電燈の下で見るとそれは酷いもので、迷い猫を拾った気分だった。
 全身は雨に濡れて髪の毛は雫が垂れ、洋服は水を吸い重く関口の体に張り付き、しかも不安定な足取りで暗がりを歩いたのが原因なのかは知らないが、何処かで派手に転んだらしく、泥で汚れたズボンの太腿が擦り切れて、血が滲んでいた。本当に只の迷い猫だったのなら、喜んで飼うのだが関口は迷い猫ではあっても飼い猫であるので、彼を招き入れるには口実が必要である。所詮は他人のもの。野良だったら、鎖を付けて無理矢理僕のものにするというのに。野良だったら飼い慣らして――いや、疾うの昔、野良猫を飼う勇気が無かった自身の自業自得が今の苦痛をもたらしているのは一目瞭然だった。

 不器用な男は、不器用そうに体を丸めて眠り続けている。

 何の脈略もなく背後から抱き締めたい衝動に駆られるのは、フロイトを頼る必要は無い。僕が屈折しているからだと自覚している。フロイトに指摘されるまでも無く、とっくの昔に自分の性癖を認めてしまっているのだ。後は関口が手に入りさえすれば、それで僕の超自我は例えようも無く満足出来るだろう。
 関口の上下する背を、眺め続ける。癖っ毛から、白いうなじが覗いている。
 見詰めながら指と指の間で燻っている煙草を、灰皿に押し付けて火を揉み消した。

 ああ、操ってしまいたい。操って、僕のものに。

 弱っている関口はそういう気持ちを起こさせる。
 普段は抑え付けている支配欲も誰も見ていないと、体の中を暴れだす。
 この感情は友人に抱くものではなく、かといって恋する者に抱く感情にしては、かなり殺伐として生臭くもある。屈折している自分だけの所為かと言えばそうでもなく、無意識に矮小で狡い男になる関口にも、可也の責任はある。責任の所在に関して、擦り付け合いが発生する。
 ――だから、関口は友人ではない。精々の定義が知人というところだろう。しかしどうしても番外の知人扱いになるのだが。

 …一つ、溜息を吐いて、緩やかに湧き上がった劣情を押さえ込む。そばにあった座布団を掴んで眠る関口に近寄った。頭を少し持ち上げた位では目を覚まさないだろうと確信があったから躊躇いもせずに――関口、枕を使いたまえ、と声を掛けながら関口の頭をゆっくり持ち上げて、座布団を首の下にあてがった。小さく声を洩らした気がしたが、嫌がりはしなかった。
 どうでも良いことだが、普段の生活の何割か、眠っている時の様に素直であったなら関口はまだ生き易いだろう。

 煙草をふかしながら関口の寝姿を見詰めている内に、夜は完全に明けていた。紫煙を吐き出して、煙草を揉み消けす。
 憑き物を落とすのに決定的な証拠と、下調べが必要だった。準備もある。時間が無い。これから、今日の仕掛けの為に仕込まねばならぬ事もある。
 書斎に入って濃茶色の着流しと羽織に着替えて、薄紫の風呂敷に草履を包み、身支度を終えると座敷へ戻った。
 関口を置いて出掛けなければならない。関口には休養が必要なので起こす気は無い。今夜は消耗戦になるのだ。
 関口の枕元に座り、座卓で書置きを書いた。
 家の戸締りと火の元の確認などの瑣末な事に、合鍵を添えて。
 合鍵は持っていてくれて構わないと書置きにも書いておいた。関口も滅多に使う事は無いだろうが、関口が好きな時に此処へ来てくれても、そう煩わしいことは無い。煙草の本数は増えるだろうが。
 眉尻を下げた表情で眠っている関口の様子を見た。

 いつもよりも顔色が悪い。
 額に手の平を置いた。
 熱は無いが、寧ろ低過ぎる。
 指を這わせて頬も冷えているのを確認した。
 関口の下唇を指先で軽く押し潰す。
 多分、関口が今目を覚ませば、僕はそのまま彼を犯すだろう。
 しかし都合が良いのか悪いのか、こういう時に限って関口は起きない。
 指に柔らかい肉の感触と温かい呼気。何も可もがどうでも良くなる。
 起きてみろよ。さあ。
 顎に指を掛け、唇を薄く開かせる。程よく厚みがある、下唇から視線が離せない。
 ああ、起きないなら、噛み切ってやるよ――。
 覆い被さる様に顔を近づける。
 湿った呼吸をゆっくり吸い込む。
 生気の薄い入り口を嬲ってやろうと、舌を伸ばす――。
 
 ――にゃ――お…。
 
 背後に、猫の鳴き声。
 関口の唇が僕の顔の傍で小さく唸り声を洩らした。
 ――ふと、我に返った。

 何を、しようとしたのか。こんな事をしている場合では無い…。眼前に迫った関口の寝顔は、無心に眠りを貪っている。顔を上げ振り返ると、縁側で、飼い猫の柘榴が、僕を諌めるようにじっと見詰めていた。書斎で寝ていたというのに、いつの間にこちらに来たのか。全く気がつかなかった。
 
 そんな顔しなくても、もう、そんな気はなくなったさ。お前の鳴き声は効果が絶大だ。
 名残惜しい気持ちで、唇から指を離し、立ち上がった。
 一度深呼吸をして、気分を切り替えた。
 柘榴が足元に絡みついて、一啼きし、また書斎の方へ戻っていった。また寝るのだろう。
 一旦寝室に戻って、押入れから薄手の膝掛けを出して座敷に戻ると、関口の体に掛けてやった。夏だからといって風邪をひかないとは限らない。関口なら充分に風邪を引く可能性はありだ。この男は数時間前まで雨に打たれ続けていたのだし、何より夏風邪は馬鹿者を好むらしい。

 そしてもう一度、関口の傍に腰を下ろした。
 風呂を使って濡れていた関口の髪の毛は乾いて空気を含んでいる。その髪の毛の間に指を入れて梳く。関口の髪の毛は、少し癖っ毛で柔らかく僕の指に絡みつく。髪の毛を梳きながら、関口の身を按じた。

 今夜の狂乱に、関口は耐えられるか元より保証は無い。関口の事件であり戦いなのだから、僕はその手助けをするに過ぎないだろう。関口がしっかり持ち堪えてくれなければ、意味が無い。
 僕が救える道理はなく、関口を救うのは関口自身である。
 なあ、関口。だから僕は頑張って欲しい。
 僕の前から、消えて欲しくないのだ。
 僕はエゴイストだから、君の事情などは考慮しない。
 何が何でも、この世界に留める。
 その為なら、手段は選ばない。
 関口の頭から手を離した。

「どうだろう。――君は僕の意見に賛成してくれるかい?」

 関口の細やかな寝息が、応えるように深くなった。
 君が素直に返事をくれるのは、こんな時しかないのか。全く、なんて男だ。これだから、始末に悪い。無理だと分かっているのに、これだから、どうしても傍に置いて手懐けたくなる。所詮は他人の猫だと分かっているのに。
 
 ・・・さあ、行かなければ。

 関口を起こさないようにそっと立ち上がり、僕は玄関に向かった。

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