もう何日――顔を見ていないのか、再確認すると更に気が滅入るので数える気にもならないが、再確認するまでもなく確り把握している自分が厭だった。 「手塚部長、お茶をどうぞ」 女子社員が手塚専用の湯飲み茶碗をデスクに置いた。 「――ああ、ありがとう」 上の空で礼を言い直ぐに此処から離れるかと思ったら、彼女はニコニコ笑いながら此処に留まっている。何か用があるのかと一瞬不可思議に思ったが、直ぐに了解した。湯飲みを手に取って緑茶を一口呑む。 「うん、美味しいよ」 その一言で彼女の表情が耀いた。 「そう云ってもらえるなんて、嬉しいです〜!」 「…いや」 言わせたんじゃないのかと思うが、それは口にすると角が立ちそうなので言わないことにする。しかし、まだ彼女は立ち去らない。どうやら、本当に用向きがあるようだっだ。 「あの〜部長?」 「何だ? 仕事で解らないことがあるのか?」 「いえ、そうじゃないんですけれど〜」 矢鱈、語尾を延ばす女だ。何が言いたいのか分からない。無言で女を見詰めて先を促すと、その手塚の態度に気圧されたのか彼女は少しどもった。 「あ、あの、今日皆で飲みに行くんですがあ〜手塚部長も一緒にどうですか? 楽しいですよーきっと」 何だそんなことかと手塚は拍子抜け半分、呆れたりもした。しかし直ぐに部下と飲みに行くのだって馬鹿に出来ないなと、考え直した。部下とコミュニケーションを取るのは必ず仕事面においてプラスになる、だから行っても良いかもしれない。そう返事をしようとすると何かコミュニケーションという言葉が、自分の中で引っ掛かったらしく、逢いたくても叶わない人物の笑顔を連想させた。 脳裏でぱちりと、火がはぜたのが自分でも分かった。 「――いや、今日は遠慮しておこう。今度の機会にまた誘ってくれ」 ――待っていても仕様がない。自ら逢いに行くのだ。 「…何か用事でも或るんですかあ〜?」 彼女は意外にも引き下がらなかった。詮索する態度が手塚には酷く鬱陶しく感じられた。自然とそれが返答する言葉尻に出た。 「私がどのように時間を使おうかなど、本来君には関係のないことだろう。私が君の私生活に興味がないように」 ――余り詮索しないでくれ、と続けて、読み進めていた書類に目線を戻すと、女子社員の走り去る気配がした。視線を上げると足早に廊下へと向かっている彼女の姿が視界に入った。 一体何なんだ、と呆然としている手塚の元に、おかしな声を上げてこちらに近づいて来る者があった。 営業部第一課部長、跡部景吾だった。 「ああ〜ん? ばっかじゃねえの、お前。あの女はお前のことが好きなんじゃねえのかよ」 眩暈を抑えながら見やった。 今日も今日とてイタリア製のスーツに派手なシャツを着きこんでの登場だった。いつもながら跡部の言動にはついてゆけず、理解する努力を早々に放棄した。頭痛がしてくる。 「知らない。そんなことは聞いてない。…というより、何でお前がそう、言い切れるんだ」 「決まってんだろ、見てたからじゃねえか。如何考えたってあの女の態度はバレバレだろうが!」 「そうなのか…? はっきり言われなければ分からないだろう」 跡部は舌打ちして頭をがりがり掻いた。 「この、唐変木が。お前の言動を見てると眩暈がしてくるっつーの!」 それは俺の台詞だと思ったがこれ以上、跡部に関わりたくはないという意思が働き「…それで? 用件は何だ」と切り出していた。 「ああ、そうだった。お宅のところからの、この企画書に書かれている発注部数がおかしいとのクレームだ。只単にタイピングミスだと俺はふんでいるが。この部数、うちに捌けなんて云って見ろ、お前の脳みそ、今ここでぶちまけてやる」 跡部の物騒な物言いは無視して、跡部が持ってきた企画書を手に取ってみると確かに数字がおかしかった。桁数が間違っていた。明らかにタイピングミスだ。 「すまない、確かにこちらのミスだ。ゼロが一つ多い」 「つうかよ、こっちに企画書通す前に確認してんだろ? こんな初歩的なミスに気が付かないなんて、ホントどうかしてるぜ、お前? 熱でもあんのかよ」 不意打ちだった。確かにいつもならこんなミスは見逃す訳はない。勿論部下が作った書類だが、しっかりと目を通してあるはずだった。 最近、気が漫ろで何事にも集中できていないのは一応自覚していたが、顔に出ない性質のせいか誰にも気取られることはなかった。それにしても仕事にまで影響してしまうことになった自分を弁護する気にもなれなかった。原因は明白だった。 ――嗤うしかないな。 「ああ、確かに俺は多少、おかしいらしい。跡部が助けてくれるのか」 面食らって、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をした跡部をじっと見詰めて口元に笑みを浮かべると、揶揄われたと分かったのか、途端に柳眉を吊り上げた。 「…このっ阿呆が! 訂正した書類、大至急刷ってうちの部署に持って来いよ! 馬鹿があ!」 そう言うと跡部は肩を怒らせて踵を返し、部署から出て行ってしまった。ドアが大きな音をたてて閉まった。何人かがドアの方を振り返っている。 確かに自分は馬鹿か阿呆のどちらでしかないと思った。只一人の人物に逢えないだけで動揺するなんて、そうそう有り得ることじゃない。どこか、おかしい。何かの線が疾うの昔に千切れている。知らぬ間に左手中指がPCの縁を叩いていた。 誰かに作り直しを命じるよりも自分で直したほうが部下に頼む手間もなく、早くすむ。そう思って新たにWordが立ち上がるのを待ちながら、頭は書面を直す手順を考え、胸の中ではまったく別の事を思って居た。 ――早く乾に逢いたい、と。 |
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