クレームがついた書類を直し、部下の仕事をチェックし、企画の草案を組んでいたらあっという間に就業時間となった。このままではいけないと気を入れ直した結果だったが、矢張りどこか、胸の辺りに靄が掛かっていた。
 跡部に出来上がった書類を持っていったら未だ根に持っていたらしく「ああ〜ん? ちゃんと出来るんだったら最初ッからそうしとけよ、ばぁか!」等と罵られたが正論であり、言い返すことが出来ないので、代わりに跡部の減らず口を頬の辺りから掴んで勢い良く両手でもって引っ張ってストレスを発散して帰って来た。背後から跡部の怒号が聞こえはしたが、無視を決め込んだ。
 今日は残っている仕事もない。はやる気持ちを抑えて退社することにした。
 鞄に書類を仕舞い、PCのメールをチェックしていると、未開封のメールが一通あった。
 アドレスを確認すると手塚が同居している乾貞治からのメールだった。
 文面は簡素で、内容も簡潔だったが、その一行でおさまる簡潔な内容で眼を伏せてしまい、また深い溜息がもれた。

 『すまない、あと二日は家に帰れそうにない』

 分かっているさ、と小さく呟いてPCをシャットダウンし、鞄を持ち「お先に」と声を掛けて部署を出た。


 社屋の南隣にあるカーパーキングまで徒歩で行き、そこからは車での帰宅となる。
 キィを操作しロックを解除し車に乗り込んだ。国産のクーペタイプで、色は無難な黒だ。自分の趣味で選んだのではなく、父親からの御下がりだった。
 キィを差し込んでエンジンをかけると、真っ先にメーター類が燈り、ついでデジタル時計が点燈した。時刻は午後六時三十二分。普段の帰宅時刻より一時間は早かった。

 駐車場から抜けて車道に出、車は滑るように動き出した。
 乾に「手塚は運転が上手い」と褒めたれたことを不意に思い出した。
 マンションは東京都世田谷区にある。通勤には環状線を使えば便利なのだが、何かあった時の為――と、父親から有無を言わさず車を押し付けられたのを、維持費だって馬鹿に出来ないのだから通勤に使ってはどうかと乾に提案されてから、以後そうしているのである。

 ――そう、様々な事を相対的に考えてみると、自分の思考と行動は乾を中心に回っているらしかった。

 手塚は利き手の左手をハンドルから離し、ネクタイを無造作に緩めた。車で通勤するようになってからいつの間にか、それが帰宅時の車内での癖になっていた。

 乾と出会ってもう何年経つのか――そんな、建設的ではない考えを巡らせてみた。

 中学一年生の頃からだからもう、十二年になる。出会ってから十二年――。考えようによっては長い付き合いだともいえるが、敢えてそこは未だ短いと思いたかった。
 …それでは、恋人として付き合いだしてから何年経つのか。それが、良く分からないのだった。恋情を寄せたのは自分からだったが、彼がいつ頃、この非常識な恋情を受け入れてくれたのかが定かではなかった。

 中学校三年生の秋に、彼に「愛している」と云った覚えがある。止むに止まれぬ胸の痛みを――押さえる為でも有り、伝える為でもある一言だった。中学生といえば未だホンの子供だ。それでも誰であろうが、子供の戯言と笑い飛ばせやしないと自負していたが、しかし数年後の現在考えてみれば単純な想いが単純に発露しただけ、とも言い換え可能だと思ったのが気恥ずかしく、切ない。

 ――なんにせよ、早熟だったのは確かだ。

 乾の返答は、同意するでもなく、拒否するでもなかった。
 見詰めると顔をそむけて薄く笑みを浮かべ「愛してるっていうのは、俺にデータを提供してくれるっていうのと同義かな」と囁くように吐き出した。
 その言葉に声を出すことが叶わず、彼の大きく白い手に触れることしか出来なかった。乾の気持ちが見えず、もどかしく、何よりもそのような言葉しか乾から引き出せない自分が、許せなかった。…要は、はぐらかされたのだ。昼下がり、人気がない図書館での乾の台詞を手塚はそう理解した。

 ――あの時点では、乾は俺の気持ちを受け入れていないことになる。

 乾が冗談だと思って受け流したということは有り得ない。巫山戯てそのような誤解を生む態度を生れてこのかた、取ったことがなかったからだ。ということは、乾に自分を受け入れたくはない、何らかの理由があり、答えをはぐらかした事になる。
 彼は一体、あの時、何を思い、あの優しげな笑みを浮かべていたのか、その答えを得ることが出来ぬまま今に至っている・・・。
 その理由を問い質したことも、問い質そうと思ったこともない。明らかにこの感情が身勝手だと自覚していたからだった。
 それが出来なかった…出来ないのは己の弱さだろう――そう思い至ったところで、車が渋滞に巻き込まれた。高速料金所で詰まっているのが容易に想像できた。
 帰宅ラッシュ時刻に高速道路に乗ろうとしているのだから、そうなるのは明らかに想像出来たことだったのだが、いつもの癖で首都高に乗ろうとしてしまった。回り道を選べばよかったと手塚は激しく後悔した。3km先までの渋滞だった。

 全く車は動かない。いっそのこと、乗り捨ててしまおうかと冗談半分頭の片隅で考えてみた。
 フロントガラスからかろうじて見える曇り空は、夕闇迫って赤みがかっていた。頭の回転が止まったようだった。まともな事は何一つ考えられない。デジタル時計は6:45と表示されていた。

 ふと、煙草の存在を思い出した。
 愛煙家じゃないのだが、苛付いた時など稀に煙草の効能にあやかっていた。ダッシュボードを開き、ケースを手に取り、左手に一本煙草を出す。――が結局、少し考えて吸うのを止した。
 ケースと煙草一本を助手席に投げ置く。最近とみに本数が増えているのを思い出したのである。
 乾は煙草を吸うという行為が余り好きではないらしい。悪戯で煙草のフィルターに千枚通しで穴が開けられていたことがある。
 その悪戯に初めて気が付いた時は、たちが悪いと眉を顰めたが、穴が開けられた煙草の直ぐ横には飴玉の袋が置かれており、それに気が付くと思わず吹き出して笑ってしまった。
 煙草なんか吸うよりも飴玉を舐めていろ、という乾のメッセージだったのだ。

 ――瑣末なことだが、思い出して気が和んでいる。

 バックミラーで自分の顔を見ると目元が少し笑っていた。そういえば、とスーツパンツのポケットを探って存在を忘れていた飴玉を一つ取り出し、包みを剥いて口に放り込んだ。
 飴玉を舐めている間、渋滞は時速10kmで前進したり停止したりを繰り返したが、思いの他に進みが良く40分後には高速料金所に辿り着いていた。
 料金を払い走り出すと後は快調だった。時速80kmから85kmを保ち続ければ大体25分後には高速を降り、世田谷の住宅地に着く。
 先程の思い出し笑いが効いたのか、気分が少し晴れていた。
 高速に乗った所為かも知れない。なんにせよ、これから乾に逢いに行くと決めたのだから、いつまでも沈み込んでいる場合ではなかった。

 ――しかし、きっと今誰かが俺の頭をかち割ったなら、乾貞治が三人位出て来るに違いない。

 その場面を想像し、余りの滑稽さに手塚はハンドルを握りながら、短く声を出して笑った。


 高速を降りてから約二十分で世田谷区のマンションに着いた手塚は、乾に渡す二日分の着替えを持って、再度車に乗り、首都高速を使って池袋方面へと急いだ。
 大学生時代から同居している乾貞治は二十五歳の現在、公務員となっていた。とは云っても、教師をやっている訳でも役所で働いている訳でもない。乾貞治は所謂、刑事――警察官であるのだった。
 警察の世界は色々と気苦労が多いと聞く。手塚も、それはそうかも知れないと思う処ではある。
 乾は決して、仕事の愚痴は洩らさないが(民間人相手に事件に関わる話は出来ない所為かもしれない)、帰って来たなり疲労困憊した顔で眠り込んでしまう事が多々あるのだった。
 そんな乾の姿を見る度、いっそ、警官なぞ、辞めてくれれば良いという気持ちが込み上げてくる。手塚はいつも歯痒さ半分、嫉妬半分、乾には秘密でそんなことを考えていた。
 警察内部には魔物が沢山いるんだ――いつか、乾が洩らした言葉だ。
 その伏魔殿のような場所に、いい年をした男の元に成年男子の民間人が、何の用も無しにふらっと現れれば、乾の探られれば痛い腹をいいだけ探られるのは手塚にも、容易に想像出来る事だった。

 ――俺の所為で、乾の立場を不利にはしたくない。

 だから、予防線の意味を込めての着替え持参なのである。まあ、それだけとも一概には云い切れないのだが、用心にこしたことはないのだった。何しろ、自分の我が侭で連絡も無しに(してもいいのだが多分、連絡するだけ無駄なのだ)勝手に会いに行くのだから。

 捜査は佳境に突入しているのだろうと思われた。乾が署に居ない可能性の方が明らかに高いのだが、それはそれでも良いのだった。そう思いかけて手塚は齟齬を感じ、首を捻った。

 ――しかし、それは正直、本心からとは言い難いのではないか。…距離が近まればいいというものか? 顔が見られなくても? 触れられなくとも――。想像してみたら、胸の辺りが痛んだような気がした。

 距離が近づけば益々顔を見たくなる。顔が見られれば触れたくなるというのは、人間の自然な感情の内に定義されるだろう。
 ただ、乾の迷惑を考えれば、押さえ込まなければいけない感情なのは判りきっているので、逢えなくてもいいなどと思い込ませてるのに過ぎないと思う反面、ただ単に、乾に手塚国光という存在を忘れて欲しくないだけなのかもしれないとも思った。自分でも何が正しい動機なのか分からず、ただ機械的にアクセルを踏み込んでいる足がある。
 一つ言えるのは、乾が警察官として働きだしてからもう四年経つが、今の一度も乾の職場に足を踏み入れたことは無いということだ。
 それは大人として当り前の配慮と常識を合わせて考えた結果であったが、その当たり前の事がこの瞬間、実行不可なのだった。

 最近は駄目なのだ。乾が傍に居ない時間は息が詰まっていけない。

 何気ない日常の一瞬、自分がこの世で一人なのだと突き付けられた様に実感し、圧倒的な絶望感からなのか、指先が小刻みに震えることも間々ある。一人で如何やってこの長い時間を生きてゆけばいいのか――不安で酷い吐き気と眩暈に襲われる。
 乾を必要とするのは凡て自分の為、自分の為――。
 口の中で呪文のように繰り返す。乾は決して自分のことをそういう風には捉えていないだろう。…それが、不安に、拍車をかける。
しかし不安になるからと云って、乾に自分と同じだけの気持ちを抱いて欲しいと要求したい訳ではない。そんな贅沢など口が裂けても云う事は出来ない。唯、そう、唯、乾に自分の名前を呼んで欲しいだけなのだった。
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