私は体の痛みで目が覚めた。外は薄青い光に満ちている。明け方だ。
 身じろぎすると、掛け布団がしっかり肩まで掛けられているのが判った。
 半裸の鳥口は壁に寄りかかって眠っていて、寝顔は間が抜けて見えた。何しろ口が大きく開いている。体の傷は丁寧に手当されていた。彼が手当したのだろう。

 鳥口の寝顔を見詰めていると私は何だか悪いような気がしてきた。否――確実に私が悪かった。
 元はといえば鳥口を利用しようとしていた私が悪いのだ。痛い目を見たとしても、それは自業自得だった。むしろ、それで良いとすら、私は起き抜けの頭で思った。それで良いとはどういうことか。痛みは大歓迎と言うことだ。――痛みは私をこの世に引き付ける。

 私が精神の安定を得る代わりに、鳥口は私を好きにすれば良いのだ。彼にはその権利がある。それなのに鳥口は私に悪いと感じたのだろう。
 悪い訳がなかった。なによりも、痛苦は息をしていると強く感じ取れる道具と成り得るのだ。それは私にとって喜び以外の何者でもない。
 私は自分に価値は無いと思いながらも、未だ生きていたい。生き汚い。塵のような存在――。それでも恐怖心から散ることが出来ない。適度な痛苦は私に希望を見出させる。

 矛盾してるといえば、この上なく矛盾している。
 私の存在や行い自体、全てが矛盾の塊だ。しかしその有り様が、私にとっては現在出来る限りの無理の無い有り方、自然体だった。今はそれ以上を求めようとも思わない。求めると取り返しが付かない程に首が絞まるのは目に見えているし、経験済みだから。

 鳥口が眉間に皺を寄せながら唸り、壁つたいでずるずると滑って寝転がった。私は複雑な気分でそれを眺めてから、もう一度掛け布団に包まった。
 
 昼過ぎになって漸く起きた鳥口は、私の顔を見ると先ずは気不味そうにした。
 私は鳥口が最悪、さっさと帰宅するのではないかと思っていたのだが、鳥口にその気は無い様で、何とか喋る切っ掛けを探しているらしいというのが、鈍い私でも直ぐに察知できた。
 眉を下げて申し訳なさそうにしている鳥口は、益々ハスキー犬に似ている。可愛らしい。
 気にする事はないと云ってあげたかったが、私は言葉で意思を伝えるのを不得手としており、喋った所で巧く伝わるとも思っていなかったので、私も鳥口が醸す雰囲気に合わせていた。

 二人黙々と洗顔を済ませたり、着替えたり、食事を会話なく採ったりしている内に、場馴れしたのか吹っ切れたのか鳥口は喋りだしたが、本調子でないのは明らかで、普段の陽気さが薄れていた。体の痛みを抱えた私の気分はふわふわと高揚する。
 それから、二人で書斎の畳の上に意味もなく寝転がって、私は窓硝子から透けて見える青空と雲を眺めていた。鳥口は私の髪の毛を弄んでいる。鳥口が私の髪の毛に指を絡ませながら、ポツリと口を開いた。

「先生は今年何歳になるんですか」

「鳥口君は何歳だと思うんだい? 別に誤魔化している訳じゃないんだ。実はあんまり自分でもよく判っていないのさ」

「何で自分の年齢を覚えちゃいないんッすか。流石ですね」

「流石ってどういう意味だい」

「流石は流石っすよ」

「――まあ、多分君より六歳以上は年をとっている」

「三十二、三ぐらいですか」

「そんなところだよ」

 そうですか、と鳥口は呟いてそのまま黙った。

「何故私の年なんて訊いたんだい」

「――何だか先生って幼いのか老成しているのか判らない時が有るんですよ。いや――それは常にですね。不思議に思えて。気を悪くしましたか?」

「いや――男で年齢を訊かれて不機嫌になる人間の方が少ないんじゃないかと思うよ。女性ではないんだから平気だ」

「――。どうして先生は、何も」

「何だい?」

「――いいえ」

「僕も一つ質問して良いかい? こんな事を聞くのはどうかと思うけど――君は同性愛者なの?」

「違いますよ。今まで男を好きになったことなんて無かったです。先生が、最初で最後だ」

「そう――なら、僕みたいな男より、敦っちゃんの様な可愛らしい女の子の方が、好青年の鳥口君にはぴったりだと思うよ。敦っちゃんも満更ではないと思う。――未来も有り得るよ」

「先生は僕が嫌いですか。だからそんな事を云うんですか」

「――嫌いじゃない」

「なら良いじゃないですか。僕と一緒に居て下さい。未来なんてそんな不確かなもの、必要ないです」

 では何も気にする必要なんて無い、と鳥口に聞こえない様に私は口の中で呟いた。
 こんな事を云おうとしている自分は何て恥知らずなんだろうと思いながら、しかし今を逃がすと鳥口に私の本心を伝える機会はもう二度と巡っては来ないだろうと予感した。

「痛め付けられる事には慣れている」

 不意に鳥口が体を起こした。

「だから、君が僕に飽きて捨てたくなっても、何の遠慮も要らないよ」

 私に覆い被さり、抱き締めてきた鳥口は、泣きだしそうな表情をしていた。


 ――何だか、夢を見ていたようだった。鳥口と付き合い初めたばかりの夢。あの時も、雪絵の不在に鳥口を家に泊めたのだった…。
 寝返りを打とうとすると、重みが掛かって思うようにいかない。私は鳥口に背後から抱き締められていた。何故、私と一緒の布団に寝ているのか不思議に思いながら、眠ったまま私の腰を掴んで離さない鳥口の腕を、何とか解いて多少離れた。
 抱き締められたりするのは情緒面で嫌いはないが、鳥口と付き合っていても未だ、慣れていなかった。鳥口は事有る毎に直ぐ、私を抱き締めようとする。感情の発露だとは勿論判っているのだが、居場所が狭まる気がして、生理的に不快感を催す日も往々に有る。鳥口から離れて自分の場所を確保し安堵したのか、私はもう一度寝入った。

 ――目を覚ますと、疾うに日は高くなっていた。
 時刻を確認すると既に午後二時になる所であり、私は流石に驚くと、暖かい布団から逃げるように抜け出て、洗面所へ足早に向かった。その際、鳥口を見た。鳥口は未だ夢の中のようで、直ぐ起きるとも思えなかった。私の視界から逃れる様に、鳥口は寝返りを打った。

 蛇口を捻って水道水を出す。
 手でもって口元に水道水を運んで口を漱ぎ、歯を磨いた。次にまるで水を浴びる様に顔を洗った。日毎に水は冷たくなってきている。
 私は水の滴っている顔で上を見上げた。胸元が顔から滴る雫で濡れたが気にならなかった。二層になっている曇り硝子の上の硝子から空が見える。抜けるような晴天だった。秋空だ。

 良いものを見たような気がして、浮き立つ感覚を覚えながら、手拭で顔の水滴を拭いつつ、寝室代わりにしていた書斎に戻ると、鳥口は掛け布団を退けて敷布団の上に胡坐をかいていた。
 私は少なからず驚きを覚えた。――起きている。鳥口は私が戻って来たのを見るとにっこり笑った。白い歯が唇から覗いてみえた。

「――先生。おはようございます」

「おは――おはよう」

 私は少しどもりながら、そう応えた。鳥口の満面の笑顔に気圧されたのだ。鳥口は寝過ぎて、肩でも凝ったのか大きく伸びをした。

「しかし、おはようなんて挨拶はこの時間帯に起きた人間には果たして適切なんでしょうかねぇ? こんにちはですか、先生?」

「起き抜け早々――よく喋るね鳥口君は――一日で最初に起きた時間が、その人間にとっては朝――なんだろう。だから、おはようじゃないかな」

「遅ようってのはどうですかね?」

 鳥口が下らない事を私に吹っ掛けて、私がそれに対して苛立ったり、厭な顔をしたり、泣きそうになったりする――それはいつもの事たった。多分、彼は私の意識を自分に引き付けたいのだ。だから、私が酷く惚けている時に大抵鳥口はそういう言動をする。私はそれを有り難いと思う時もあれば、鬱陶しく思う時もあり――気分により、まちまちだった。

「もう――どっちだって良いよ。君が好きに選択すれば良いだろう。おはようでもこんにちはでもオソヨウでも――」

 私は上の空の態で応えた。鳥口の言葉遊びに応じられる気分ではなかった。窓から見た空の青さが忘れられない。何処かに出掛けたい気分だった。食事はどうしようか、と私は訊いた。鳥口は沢山食べる男なのだ。今、腹の虫が鳴き出しても不思議は無い。

「君が腹を空かせてない訳は無いし――」

 私にしてみれば気の利いた質問だったと思うが、その後が続かなかった。鳥口は目を輝かせて、嬉しそうに口元を綻ばせた。
 鳥口は明るくて、素直で、聡明で、体力もあって、天然惚けで(狙っている時の方が多いかもしれないが)――本当に大型犬の様だ。鳥口の笑顔は私にそれを連想させる。そして私に構う事は無いではないかと再度思ったりした。いや――私は出来る限り鳥口に甘えれば良いのだ。出来る限り全体重を預けるように凭れ掛かれば良い。私は鳥口の望みが判らないから鳥口の為すが侭にされる

――それで良いではないか。今の私には、それしか出来ないのだ。鳥口は唇を尖らせていた。

「うへぇ、先生も云いますねぇ。確かにぼかぁ腹ペコです。先生が――ご飯、作ってくれるんですか」

「まさか」

 作れる訳が無い。私ははっきり拒否した。外の空気が一刻も早く吸いたくなっていた。

「僕は台所に立ったことがないし――鳥口君には期待出来ないし――」

「酷い云いようだ。僕はこう見えても、料理は好きでして」

 何を云う。この前釜を駄目にした癖に。

「――取り敢えず、君が顔を洗ったら」

 出掛けよう。
 私はそれだけ云い残して、自室に戻った。鳥口は鳩が豆鉄砲食らったような顔をしていた。
 私は自室で寝巻きからスラックスとセーターに着替えた。

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