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 彼は、私を好きだと云った。――私には彼の言葉が理解出来ない。

 いつも鳥口は笑っている。目を細めて、軽妙な語り口で。

「僕ぁ、先生のことが好きなんですよう――」

 そんな事を口癖のように云う。出会って以来、変わることはない。私はいつも本気には取らない。

「へぇ――そう。それは良かった」

 鳥口は私が本気に取っていないのを判っているのかいないのか、それこそ知らないが私がそう云ったところで、鳥口の笑顔は絶えることがない。いや――私は今、彼に背を向けているのだから実際笑っているかなんて確認出来ないが。

「――先生は、僕の事どう思っています?」

 文机に向かって原稿の升目を下らない文章で埋めていた私は、鳥口の問い掛けに少なからず驚きを覚えて、背後にいる鳥口を振り返った。

「――何だって?」

「だから、僕のことどう思っているんですかって訊いているんですよ」

「そりゃあ――いきなりだな」

「酷いッすね。別にいきなりではないですよ。僕が何度、先生に気持ちを伝えたか判っていますか? それなのに僕は先生から、僕の事をどう思っているのか一度だって耳にした事はないです」

 鳥口が私に伝えた気持ち――とは先刻の惚けた台詞だろう。どれほどの本気の言葉かは知らないが、それが指し示している意味は判っている。私だって子供ではないから。
 別に同性に恋愛――というより性欲の対象にされるのは初めてではない。私の様な男の何が良いのか――非生産的で全く馬鹿らしいことではある。
 私は良く見ると精悍だと判る鳥口の顔を一瞥すると原稿に戻った。きっと私は胡乱な表情をしているに違いない。

「好きだよ。惚けたことを喋り続ける根性は見上げたものだし、何より君は仕事が出来るしね、カストリ記者にしておくのは勿体無い」

「先生が褒めてくれるのは嬉しいですが――僕が質問したのは、そんな言葉を聞きたいからじゃない」

 そうだろう。私は判っていながら判らない振りをした。

「――何を云っているんだい? 意味が分からないよ。一体君は何を焦っているのか」

 私は苦笑を浮かべながら万年筆を走らせている。今日は進みが良い。この調子なら一週間後には近代文藝に寄稿出来るかもしれない。鳥口が動いた気配がした。私のすぐ後ろにいる。それでも私は背後を振り返ろうとはしない。鈍くて愚かな男だと思って私を諦めて欲しい。

「先生は判らない振りをしてるだけっすよね。僕を見て下さい――」

 そう云って鳥口は私を背後から抱き締めた。万年筆を動かしていた手の動きが私の意思に反して止まる。首筋に鳥口の息が掛かってぞくりとした。

「止めてくれよ――そうやって抱き締められたら鳥口君の顔が見られないだろうに。本当に――どうしたっていうんだ。腹でも空いて力が出ないのか。それとも寝不足かい? 寝惚けているんだろう?」

 私は鳥口から何とか平穏に逃れたい一心で、心にもない事を口走りながら体を捩じった。

「逃がしませんよ、絶対に。僕は先生のことが――」

 鳥口は云い募って腕に力を籠めた。腕に軽い痛みが走った。鳥口の苦しそうな息遣いが私の耳に流し込まれる。

「誤魔化さないで――逃げないで下さい」

 ――私が誤魔化しているのは判っていた訳か。当然かもしれない。鳥口は外見よりもずっと敏感で聡明だ。私はそれを知っていながらも無視をする程にどうでも良いと感じている。しかし、私には鳥口君の意思を押し退けてまで守るものなどないし、何よりその気力がない。簡潔に云ってしまえば自分の身なんてどうなったって良いのだ。好きにしたら良い。
 私は拒否も許容もせず、ただ私という男が好きだと云った鳥口を哀れに思いながら、万年筆を文机に置いた。元より抵抗する気力も無く、もがく事自体が馬鹿らしく思えたのだ。
 鳥口は長いこと私を抱き締めて、それ以上を求めはしなかった。
 私はその間に、私を包む広い体を背中に感じて、喩えようもない違和感を持った。
 他人に抱き締められるのは――良いものではない。私の体は抱き締められている間中、震え続けた。

「先生、締め切りまでは未だ時間が有りますのでゆっくり書いて下さいね。必要でしたら取材にも行きましょう。僕が運転して先生を何処へでもお連れします。それとさっきは抱き締めたりしてゴメンナサイ。厭だったでしょう。どうも最近押さえが利かない。あはは、若いって難儀なもんっすねぇ。でも――僕はこの気持ちを撤回する気はないんですよ。面倒でしょうけど、付き合ってやって下さいね。それでは失礼します。奥方に宜しくお伝え下さい」

 見送った私に対して、鳥口は私が口を開くのを恐れているのか機関銃のように一方的に喋ったかと思うと脱兎の如く去った。少し目の間隔の詰まったハスキー犬が、大きな兎の様だった。
 夕餉が匂い往魔が蔓延る刻だった。鳥口のダットサンもどきの車体は喧しく音を立てて、玄関先から消えると、家の冷え冷えとした静寂が耳についた。
 ――此処は薄暗い。
 私はその侭、玄関に立ち尽くした。
 鳥口が可哀相に思えてならない。
 鳥口は私が発する独り善がりの暗闇に、引き摺られているのだろう。私に関わると碌な事が無いのに。
 しかしそうは思っても明確に拒否しなかった私が今更に鳥口の身を按ずる権利はない。
 何故拒否しなかったのかといえば、私の身に流れる、怠惰な日常に埋没しすぎた思考を、狭間へと彼が引き戻す手助けになるかもしれないと、頭の隅でちらりと思ったのだ。拒んで一つの可能性を潰してしまうのを恐れたのだ。
 決して受け入れた訳じゃない。後ろ髪引かれた――私はそうした男だ。

 ああ。玄関に漠然と立ち尽くして、取り留めもなく他人を陥れる算段をしてる、私という存在は、なんと厭なものなのだろう。

 私は自分より六歳以上若い青年を利用する気でいるのだ。
 彼の感情を。彼の正常な精神を。また、寄生する気でいる。十数年前の様に。年若い彼は年若い私の寄生を許した。それどころか――もしかしたら、彼の方から、私を取り込んだのかもしれないけれども――。
 私はそれで生かされながらも、息苦しく思えて――悪い気がして――潮時だと思い込んだ。彼の傍から離れた。それなのに――もうこの始末だ。…そう、彼に知られてはいけなかった。彼に会いに行ってはいけない。一目見ただけで私の悪心を彼は見抜いてしまう。そして私を心底軽蔑した瞳で射抜いて一言「馬鹿だね」と呟くのだろう。彼は誰よりもこの私が一番愚かなのを知っている。

 足元から寒さが忍び上がる。

 床の冷たさを吸い取って私の足が冷えている。
 彼の傍は居心地が良かった――。それは今でも変わらないだろう。彼の私に対しての態度は驚く程、変わりはしない。しかし――変わりたいのだ。変化を迎えたい。蛹の殻を破るように――居心地が良くて気持ちが良いだけでは、もう、駄目だ。

 唐突に、玄関戸が開いた。

 驚いて反射的に顔を上げると、そこに買い物袋を下げた妻の姿があった。雪絵も驚いた顔をしていた。

「ああ――タツさん。驚いた。電燈もつけないで、こんなに寒いところで何をなさって居るんですか。お化けかと思いましたわ」

 私は雪絵を直視することが出来ず、ああとか、ううとか意味のない音を唸って応えた。

「本当にタツさんったら面白いんですから――。玄関で考え事をしていては風邪をひいてしまいますわよ。さあ、茶の間に戻って下さいな」

 雪絵は屈んで履物に手を掛けた。私は何故か暗くてはいけないと思い、慌てて玄関燈をつけた。雪絵は、あら有り難うと履物を揃えながら云った。そして立ち上がり、私の顔を見ると首を幽かに傾げた。

「――大変、本当に風邪を引いたんじゃないのかしら」

 顔色が良くないわ、と云って雪絵は手の平で私の額に触れた。
 雪絵の仕種は母親の顔を喚起させた。雪絵は母性に満ちている。彼女は子供が欲しいのかもしれない。
 だが、私は子供など欲しくはない。途端に恐ろしくなって雪絵の、細くて女らしい手を緩慢に払った。

「大丈夫――何でもないんだ。何でもない――」

 雪絵は不思議そうに私の顔を見詰めた。私はぎこちない笑みを浮かべて雪絵の視線をはぐらかした。


 それから、私は案の定、鳥口と肉体上関係を結んだ。
 雪絵の不在時を狙って鳥口を招いて。まさに陰間の所業だった。
 そこに至るまで数ヶ月間を要した。その頃には私は鳥口に愛情めいた感情を懐くようになっていた。接触恐怖症の気のある私が鳥口に体を触られても嫌悪を感じなくなっていたのだ。
 それはひとえに、鳥口が恐怖を与えないように細心の注意を払っていたからだろう。鳥口は私に無理を強いたことはなかった。
 初めて男を抱く割りに鳥口の手腕は卓越していた。
 私は痛みを感じる所か気持ち良くすらあり――それなりに快楽を貪った。その姿は男性経験が過去に何度かあったと鳥口に悟らせるには充分だっただろう。それでも鳥口は、終止優しく私を扱った。私は汗を振り絞って有らんばかりの声で鳴いていた。

 微睡んで、無意識に体を小さく丸めて眠りに着く瞬間を鳥口に腕を取られて起こされた。
 何故か、鳥口は全身に怒りを漲らせていた。こんな鳥口は見たことない。私は恐怖に慄いた。
逆らうべくもなく、獣の様な体勢を取らされた。先程の行為とは打って変わり、荒く攻撃的な鳥口を私は拒めず、受け入れた。

 体の至る部分を傷付けられて私は身を捩じらせる。
 鳥口は無意識に逃げようとした私の体を、がっしりと雄雄しい腕で固定して離さない。鳥口はどこまでも追ってくる。
 私は恐怖を感じる状態にありながら鳥口に揺さぶられて浅ましく射精し続けた。

 これが私という人間なのだと、見たくもない本性を見せ付けられた気分だった。
 肝心な部分の羞恥心が欠如して、私という人間を形作る。私という存在はどこに価値を見出せるのか。幾らか若い時分ならそう思ったこともあるが――今は簡潔に回答を導き出せた。私という存在に価値など有りはしない。人間の価値などという観念は所詮妄想だ。

 それは人種差別とかヒエラルキーとか云う事を指しているのではない。そう云ったことではなく――私以外の人間の価値は有り得るかも知れない。が、ことに私の場合の価値となると――無いのだった。

 悪夢のようであり扇情的な夢のようである現実から、私は気を失うことで逃れた。

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