外に出るのは久し振りだ――と関口は云った。
 関口が出掛けようと云うのは珍しかった。
 珍しいどころか――関口に請われて出掛けるのなど初めてではないか。
 夏は疾うに通り過ぎていた。
 もう、広葉樹が葉を染め始めていた。

「本屋に行きたかったんだ。――君がいるのなら、持ち切れない程の本を買うチャンスだったけれど、先立つものが無い」

 関口はそこで小さく苦笑いをした。本屋――関口からその言葉を聞くのも久し振りだった。本、と云えばあの男を連想するから。まさか、中野に行くのじゃないだろうなと頭の端で杞憂したが、二人で降りた駅は神田だった。
 
 神田の古本屋街――そこでの関口は、ほんの少しだけ愉し気だった。
 関口にしては陽気な笑みで、馬鹿みたいな内容の本を手に取り、この本をネタにして君のところで一作書こうか赤井書房にぴったりだろう――何て云ったりして。
 ネタ探しを兼ての外出だったのだが、こういう場合、以前なら――僕と付き合う前なら――どうなっていたのか、容易に想像がついた。一もなく二もなく関口は京極堂に行くのだ。そう思うと、少し肚の底がチリチリした。
 
 可也遅い昼飯は古本屋街の直ぐ近くにあった蕎麦屋に入って摂った。
 僕は狐饂飩で関口が狸蕎麦だった。
 関口に、君は饂飩もガツガツ喰うのかい、と目を丸くされた。そんなつもりはなかったのだが。
 
 僕は関口の買った本を持って歩いている。
 関口が持ってくれと云った訳ではないけれど、黙って関口の腕から奪って持ったのだった。誰よりも、関口の役に立ちたかったのだ。

 夕刻――だった。西日が右頬に当たっていて変に暖かい。僕らは神田駅の差し向かいにある、往来を歩いていた。
 もう、関口と中野駅には戻らない。もう直ぐ関口の妻、雪絵が帰って来るからだ。関口の家に泊まるのは雪絵が帰って来る迄、と関口と約束していた。

 僕の社宅は神田に有る。関口が此処で振り返り、それじゃあと云って仕舞えば其れ迄だ。
 関口が神田駅の南口を見詰めて小さく身じろぎした。もう、自宅に戻りたくなったのか。
 この侭――関口と別れるのは、厭だ。
 関口がちらりと僕を盗み見たのが判った。関口が口を開く前に――先手を。
 ――打たなければ。
 僕は関口を呼んだ。関口がちらりと、黒い孔の瞳で応えた。

「僕の社宅に――来ませんか」

「――え」

 関口は歩を止めた。僕もそれに合わせて立ち止まった。

「社宅――」

「僕は社宅住まいなんですよ。知りませんでしたか? 僕は喋った覚えがあるけれどなあ、先生忘れっぽいから――記憶にありませんか?」

「――これから」

 関口は僕の問いには応えない。いつも関口は自分の思った事をぶつぶつと垂れ流すだけだ。
 僕がその言葉の意味を汲んで漸く――僕らのコミュニケイションが成立する。そう――僕が思っているだけだが。関口は誰とも繋がりたくはないのかも知れない。苦い気持ちになった。

「これからです。其れとも、三時間後に僕の社宅に来てくれます?」

「いや――」

「否定ですか。その場繋ぎですか」

 関口は僕の前に居るのが辛いとでも云う様に、下を向いた。
 側を通り過ぎた女が、面白い物を見る目でこちらを振り返って往き過ぎた。
 関口を誰の目にも触れさせたくないと思った。

「――えが」

「聴こえません」

 聴こえなくても――関口が何を云いたいのかは判る。

「――ゆき――えが帰って来る」

「そうですか。良い事ですね、それは。奥さんが居なきゃ先生は飢え死にして仕舞う。で――それが、僕の処に来るのを断る理由ですか。僕に云わせれば、それがどうしたの、ですねぇ」

 雪絵の名を出せば、僕が引き下がるとでも思っていたのだろうか。関口は驚いた様な困った様な、泣きそうな表情で顔を上げ、僕の肩辺りを見詰めた。それが彼の精一杯なのか。決して、僕と視線を絡ませようとはしない。――関口は狡い。しかし、それでも僕は好きだと思うのだ。切り捨てれば、楽になれるのに。でもそれは出来ない。したくないから。だから僕は必死で関口を引き止めようとする。幾ら滑稽に思えようとも。一体何度、このような堂々巡りを繰り返してきたのか。自殺行為に似た馬鹿馬鹿しい状況は、惚れた弱みなんて言葉で表現するには、生温い。

 中禅寺秋彦の顔が浮かんだ。あの人が僕の立場だったなら、どうするのか。何が出来るというのか。不意に中禅寺の名を口にしている自分がいた。

「だって――京極堂さん、中禅寺秋彦さんが、家に来いって云ったら先生は行くでしょう? 雪絵さんには電話の一本で済ませて仕舞うでしょう? 僕だってそれで良いじゃないですか。それとも中禅寺さんが来いって云ったら行くけれど、僕が云って、来れない理由でも或るんですかね」

 僕らは一応付き合っているんでしょう――。情けない、何て小さな声だ。

「――判った。先生は中禅寺さんと付き合っていたんだ。それが正解ですか」

 違う、と関口の唇が動いた気がした。否定するなら――もっと、はっきりと否定して欲しい。このままじゃ、なにも信じれない。

「それで、自分は妻帯者で中禅寺さんもそうだから、辛くなってきていた所に馬鹿そうな編集者がふらふらと言い寄って来て、渡りに船とばかりに乗り換えたんでしょう。まあ――僕は結婚してませんから」

 関口は下を向いて両手で顔を隠している。耳を塞げば良いのに。

「乗り換えてみたは良いけれど、思いの外、僕は嫉妬深い男だし何より、中禅寺さんを忘れられないとか――ああ、それとも、先生の片思いですか」

 だからあの店へ足繁く通っていたんでしょう――。

 さあ――早く否定してくれ。早く。そうじゃないと――きっと、全てが終わって仕舞う。

 僕は関口の言葉を待っていた。しかし、言葉は返ってこなかった。代わりに小さく息を詰まらせる音が関口から漏れた。関口はまだ、両手で顔を押さえている。注視すると――肩が震えているのが判った。これは――泣いているのか?
 悟った途端に体が熱くなった。このような関口を往来に晒した侭にして置くなんて、出来ない。
 そう思ったら、本を抱えていない左手が――関口の細い上腕を掴んでいた。
 一瞬何故だか罪悪感に駆られた気がしたが、それに構っていられる程の余裕は無く、凄い勢いで関口を薄暗い路地裏に押し込む様にして導いた。自身も滑り込んで、その後に続いた。

 狭い路地の間、表情を見られまいと顔を背ける関口の真向かい、彼の体を抱き寄せた。小刻みに震えているのが伝わって来た。不用意に――彼を追い詰めた事を、悔いた。
 関口にとって――中禅寺という男の存在がどれだけのものか、そんなことを問われても関口は困るだけだ。彼にとって中禅寺は体の一部みたいな者なのだから。どうして貴方に目が付いて居るんですか――と問うようなものか。
 ――今日ばかりは、そう、思い込む事にしよう。
 それよりも腕の中で何も云わずに身を強張らせている存在が、切ない。関口が哀れに思えて、自ら招いたこの状況に息が詰まる。

「せんせい――何か、言って下さいよ。――僕が、悪かったですから」
「御免なさい――もう二度と、あんな事は云いません」
「僕は先生の言葉を待っていたんです――否定してくれると、勝手ながら期待していました」
「雪絵さんと先生に――中禅寺さんと先生に――嫉妬していたようです」
「今日は――僕があんなことを言い出さなければ、最高でしたね。楽しかったです」
「もう――返してあげますよ。――雪絵さんが――気掛かりなんでしょうから」

 関口はなにも言葉を返さない。これ以上関口に語り掛けても無駄か。
 所詮、関口に僕の言葉は届きやしないのだろうが、黒くて深い瞳をこれから盗み見る事さえ出来なくなるかもしれないと思うと、悔しく思い――少しでも抱き締めている存在を、認識してくれないかと甘い言葉を選んで吐きながら、自分の弱さに蓋をして、関口が反応してくれないのを、したり顔で彼の所為にしている僕が居る。

「今度又――僕と出掛けたくなったら呼んでやって下さい――鳥口なだけに飛んで来ますから」

 僕は関口をきつく抱き締めた侭、息を吐いた。関口は僕の腕の温度に埋もれる如く、じっとしている。僕はそれが歯痒い。関口はそうして居れば時が自分を逃がしてくれる事を知っているのだ。どこまでも、狡い男だ。

「――先生」

 それではまた、と呟きながら、僕は腕の力を緩めた。緩慢な動作で関口から身体を離す。
 何処かが軋んだ音が、多分僕の耳にだけ――何処が軋んだのか定かじゃないが。骨ばった体から腕を離した。
 関口が――ひゅう、と息を吸い込んだ。

 途端、出来た身体と身体の隙間を、薄汚い路地に吹いた突風が通り抜けた。

 髪を軽く吹き乱された関口が不安気な表情を見せている。僕はその顔に弱い。錯覚させる。本当は離れたくないと思っているんじゃないかと。でも、本当は判ってる。
 関口は僕と離れたくないから不安気にしているのではなく、自分の心配をしているのだ。離れたくないと不安に思っているのは、僕の方――。
 背を向けて路地から抜けようとした関口の左手を盗む様に掴んだ。驚いて関口が振り返る。

「な――何」

 涙の所為で過剰に潤んだ瞳が大きく見開らかれる。
 開襟シャツの長袖から表れた関口の腕の内側――一層白く光る部分に、僕は口付けた。
 躊躇いもなく歯を立てる。
 関口が悲鳴みたいな呻き声を、唇を震わせて漏らす。僕は関口の顔を見詰めた侭、更に顎に力を籠める。柔らかい歯応え。関口が鳴いた。鉄の味が口一杯に拡がった。

「い――痛い、よ――鳥口君」

 関口が喋り終わる前に、僕は一層強く関口の腕を咬み締めた。悲痛な呻きが路地に響いた。血の味が濃くなっている。
 関口の腕を咬み千切る気は無いので、そんなに酷くは出血していないと思うが、まあ、其れなりには出血しているのだろう。
 関口が眉を顰めて涙を零した。僕はそこで漸く関口の腕から口を離した。
 僕が咬むのを止めたというのに、関口は自分の腕を僕の手に任せた侭でいる。放心しているのか。
 関口の腕には血が滲んだ咬み跡がくっきりと残っていた。

「なんで――こんなことをするんだ」

 関口が震えた声で訊いてきた。そんな関口が滑稽に思えた。

「さあ――何故でしょう。――先生の腕は柔らかいですね。男の腕じゃないですよ」

「そんな事を――云うのは君だけだ」

「云われたことが無いんですか。そりゃ光栄。僕が一番最初っすね」

 僕は掌から関口の腕を零し放した。関口は震える手で、血液を滲ませた傷口を僕の目から逃す様に隠した。

「こんな馬鹿馬鹿しいことに理由なんてあると思いますか、先生は」

「――君が僕を好きだと云うこと自体、馬鹿げているんじゃないのか――」

 関口の声は、憤っていた。僕は乾いた笑い声を立てた。
 それは、そうだ、その通りだ、唯の被虐体質の男に惑わされた、若いだけの男。
 この組み合わせは滑稽以外の何者でもない。

「云いますねぇ――」

 僕はすうと息を吸った。僕は今、どんな表情を浮かべているのか。いつも浮かべている人の良さそうな笑顔が、今でも顔に張り付いているのか。僕にとってそれは、無表情と変りがない。一つのものを終わらせようとしているのだから、この刻だけは、特別な表情を浮かべていたい。

「僕は行きます。痛いことしてすみませんでした。結構強く咬んだから、ちゃんと手当てをして下さいね。それと来月、お願いした原稿を受け取りにあがりますので。締め切りは守って下さいよ。それでは、奥方と、師匠に宜しく伝えて下さい――」

 先生も早く行かれた方が良いですよ、雪絵さんが心配してるといけない――僕は自虐的な、関口にとっても厭味にしか取れない親切めかした捨て台詞を吐いて、此処から覗く表を見た。

 日没を迎える寸前の空模様だった。関口の姿を一瞥し視界に捉えて、歩みだす。

 関口が僕の後姿を見詰めているのを感じ取れる。薄汚い路地裏を抜けた瞬間――生ゴミが発する、吐き気を催す臭気を僕は感じた。

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