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「関口の腕の噛み痕、あれは君だろ」

 中禅寺秋彦は煙草を咥えて和綴じの愛書を読みながら、明日の天気の話をしている様な淡々とした口調で、核心に触れた。こちらに目もくれていない。
 その普段と変わらない中禅寺の態度が、鳥口には殊更不気味に思えた。
 別に今更慌てふためく気もさらさらなかった鳥口は、中禅寺の質問を当然のように受け止めて、中禅寺が出してくれた湯飲みを見詰めた。

「何でもお見通しなんですね。――どうもあの時は歯止めが利かなくて。関口さん、恨み言でも洩らしてましたか」

「雪絵さんから、関口がおかしな噛み痕みたいな傷を作って帰って来た、それについて何か知りませんか――と電話を貰っただけだ。関口とはもう随分と会ってないよ。顔も忘れてしまったぐらいだ」

「――鎌を掛けたんですか」

「――君がそんなに強烈な呪を掛けれる人物だとはね。どうだい、関口に効きそうかい」

「あの人は――そんなもの気にもしちゃいませんよ。気にしているのは自分の事と、それと、あなたの事だ。正直に僕に話して下さいよ。関口さんと昔、或いは今、特別な関係が有ったんでしょう。僕はその事実をあなたの口から聞き出すまでは帰りません」

 中禅寺は活字から目を滑らせると、鳥口をきつく睨んで紫煙を吐いた。中禅寺の目は狼を思わせる。しかしまだ、鳥口が知っている中禅寺の最上の怒りという程ではない。

「何をどういう風に勘違いしているのか知らないが――馬鹿な思考は今直ぐ停止するんだな」

 中禅寺の言葉に激昂した鳥口は、両手を座卓に叩きつけていた。中禅寺は派手な音に反応も見せず、心底から厭そうな顔をして鳥口を睨んでいる。

「これ以上、粗野な振る舞いをしたら出て行って貰う。此処は僕の家なんでね。物を壊されでもしたら堪らないからな」

「弁償はしますから嘘を云わないで下さいよ。僕だから判ることだってあるんです! 例えば――関口先生の体は、初めて男に抱かれる体じゃなかった。それぐらい判らない程に僕は目出度くないんですよ。あなた以外に誰が居るって言うんですか?!」

「過去に関口が、誰に抱かれようと関口の勝手だ。君と出会う前の事まで遡って縛ろうとするのは愚かしい行為と云わざるを得ないな。嫉妬するのはお門違いというものだ」

「別に僕は嫉妬しているから中禅寺さんを問いただしているのではない。関口先生は――中々僕を見てはくれなかった。何故なのか――どうしても知りたいんです」

「はん。付き合いきれないな。人の恋路なんて。僕には興味がない」

 中禅寺は片眉を吊り上げて鳥口を馬鹿にしたような表情で見ると、また読書を再開した。

「中禅寺さん、僕は本気なんです。本気だったんです――。本気で関口先生が好きなんです。僕はもう、関口先生には嫌われているし、諦めようと思ってはいるんです。僕みたいな男が関口先生にとってはどうでもよいものだって実感したから。だけどどうしても納得がいかないと関口先生を諦めるに諦めきれない。元の関係に戻ろうという踏ん切りがつかない。僕は元の生活に戻る為に此処に来たんです。それに――本当に人の恋路の話と割り切れるんですかね。中禅寺さん自身に降り掛かる話じゃありませんか?」

「――僕は君に似た男を数人、知っているよ」

 鳥口の問い掛けには応えず、中禅寺は喫い差しの紙巻煙草を灰皿に押し付けて唐突に、そう云った。

「どこにでもある平凡な顔立ちですから。――その人達も寝溜めと食い溜めが得意技でしたか」

「それに路に良く迷うかい? そんな三文小説の登場人物のような人間は君以外にいないだろうよ。――関口と関係を持った男達だ」

「――それ、どういう意味です」

 鳥口の眼光が中禅寺の言葉の意味を噛み砕いて、鋭くなってゆく。声帯も振動数を減らし低く響く。

「言葉の通りの意味だが? 関口の相手をしていたのは僕じゃない、他の男だ」

「じゃ、なんですか、中禅寺さんは関口先生が男娼よろしく複数の男に対して体を売っていたとでも云いたいんですか?!」

「そう簡単に鶏冠に血を昇らすものじゃない。愚かな早とちりは迷惑なんだ。僕は一言でも身売りなんていったかね。――そいつらも君と同じさ。何処が良いのか知らないが関口に夢中になって、関口と関係を持ったんだ。――皆、長くは持たなかった。鳥口君、君と同じでね」

「――」

 他の男――? 関口の相手は、中禅寺以外に無いものと思い込んでいた鳥口にとって、他の男、という言葉は困惑をもたらすものでしかなかった。それでも、その要素を瞬時に取り入れて、鳥口は思考する。関口が泣きながら中禅寺との関係を否定した、それは事実だったのか?

「それで? 君が此処を訪れた理由は、僕と関口がどういう関係なのか――その一点のみだったのだな? 僕がこう断言すれば君は信用出来るのか――僕にとって関口は出会って以来、只の知人にしか過ぎないと」

 中禅寺が知人だと断言するのは然程驚きはない。普段から関口を事有る毎に馬鹿にし、罵倒し、こんな奴は友人などではないと公言して憚らない中禅寺である。予想できる範囲だ。
 しかし――何かが引っ掛かっている。まるで喉の奥に魚の小骨が刺さって取れない様な焦燥感。
 ――じゃあ、どうして中禅寺さんは先生を身近に置く?
 中禅寺の本心は深く沈んでいて、鳥口には窺い知れないが、表層を撫ぜる位の判断は出来る。

「これで満足かい。それとも、鳥口君の為にもう少し付け足そうか。これからも、関口と只の知人同士で在り続ける以外の可能性は僕の中には存在し得ない――と」

 違う、と鳥口は思った。関係だの既成事実の有無だの、そんな事が重要なんじゃない。重要なのは。

「――好きじゃないんですか。関口先生のこと」

「どうして僕があんな手の掛かる面倒な男の事を好まなければならないんだ。僕にはそういう趣味はない。何でも君の尺度で物事を測らないで貰いたいね」

 そう云いながら中禅寺は煙草を取り出すと、マッチを擦り火を着けた。燐の焦げた臭いが鳥口の鼻を突く。
 煙草を咥えて、深く吸い込んだ中禅寺の眉間には、相変わらず深い皺が刻まれている。
 目が合ったが、鳥口は直ぐには目を逸らさず、余裕を持ってから湯飲みの茶を啜った。
 鳥口は京極堂の言葉に納得がいっていなかった。中禅寺は近くにいれば必ず迷惑を被るだけの面倒な知人が、傍にいる事を許すような人間だろうか。
 ――この人は恐ろしく嘘が上手い人なのだ。僕は騙されているのだろうか。

「関口さんと付き合っていた人達は、今どうされているかご存知ですか」

「僕がどうしてそこまで知っていなくちゃならないんだ――と云いたい所だが、知っているのも何人かいる。関口と大学生時代に四ヶ月程度付き合っていた男は――名前は伏せるがね、今は結婚して二人の子持ちだ。仕事は高校で化学を教えているらしい。旧制高等学校時代に二箇月間だけ付き合っていた男は戦争で死んだ。満州で暴動によって起きた列車事故に巻き込まれたときく。――何故知っているのだと、訊きたそうだね。こいつらは僕と関口の共通の友人でもあったからだ。風の噂は素早く耳に入る。僕は今のように、関口の事に関して良く相談を受けていたのだよ。皆、どうやら僕が関口の事を全て知っていると勘違いするらしい。要らない嫉妬を受けて苦労したこともある。――なあ、鳥口君にそっくりだろう」

 まるで、今までの人間と何ら代わり映えのしない存在、と言下されていると鳥口は感じ取った。
 不快感を禁じ得ないが言い返す言葉がない。中禅寺が言下に含ませた意味を否定する材料が見当たらないからだ。また、鳥口自身が関口にとっては、どうということもない存在だという事実を、思い悩んできてもいるから余計だった。

「――似てますね。まるで僕だ。今度いつかあの世で出会うことがあるなら、兄弟と親しみを込めて呼んであげたいですよ。中禅寺さんは全て知っているというような顔をするから迷惑を被るんじゃないですか。そんなに面倒がるのなら僕に関口先生の面倒事を任せてくれれば良かったんだ――なんて、冗談です。僕は関口先生を諦めたんだし」

 鳥口はそう云って自嘲気味に笑った。

「どうして――僕が関口を構うのか、と問いたいのが、どうやら君の本心らしいね」

「僕に語っても差し支えのない理由を教えてもらっても嬉かないんですが」

「別に僕は君を嬉しがらせる為に喋っちゃいないんだがね。不本意なら別に良い。僕は本を読むだけだ」

「うへぇ――非常に不本意では有るけれど一応聞きたいです」

「本当にどこまでも調子の良い男だなぁ、鳥口君は」と云いながら中禅寺は灰皿で燻らせていた煙草の落ちずに長くなっていた灰をとん、と弾いて落とした。

「お褒めに与り光栄ですな」

「褒めちゃいないさ。呆れているんだ。――君は、動物を飼った事はあるかね」

 鳥口は一体京極堂が何を喋りだしたのだろうと訝しげながらも正直に話した。

「故郷にいた時は白くて大きな犬を飼ってました。はぁ、雑種でしたが随分頭が良くて可愛かったですね」

「野良犬だったのかね」

「まさにそうです。その犬、シロってんですけどね――シロを拾ったのは六歳ぐらいだったかと。最初は親に内緒にして近所の空き地で飼っていたんですがね、まあ田舎のことで直ぐばれますわ。ああいうのはね、情が移りますね。飼い出すともういけない。シロも子犬だっただけにね、可愛くて――手放したくなくて、親に必死で頼み込んで、どうにか家で飼える事になったんです。父親には飼っても良いが一度世話したからには最後まで責任を取れと云われて、子供ながらにハッとしたっけなぁ」
 ――って関係ないことまで喋っちゃいましたか、と鳥口は呟いた。

「いや――正にそういう事さ」

「は? 何のことですか」

「僕が関口を構う理由だ」

 中禅寺の言葉に、どのような意図が込められているのか判断しきれない鳥口は、両目を大きく瞠って黙りこくってしまった。中禅寺は淡々と言葉を繋いでゆく。

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