「どんな人間か気にもしないで、軽い気持ちで世話を焼いた。そのツケが今更の如くに巡っている。だから困った知人だよ。アレは。といっても落ち度が関口にある訳じゃない。彼は彼なりに卑怯に見えようと卑屈だろうと精一杯生きてきただけだ。僕の関わり方に問題が有った――そういう事だ」

「なんです――意味が判らない――関わり方に問題が有ったとは、どういうことなんです」

「意識無意識を問わず、僕は関口の飼い主になっていたのだ。まあ、犬として関口は番犬にはなりえない、人の手が無いと死んでしまう愛玩犬、といったところだったろうが――」

「な――なにを、云うんです――中禅寺さん、冗談にも程がありますよ。ブラックジョークならもう一度仰って下さい、僕にも腹の底から笑う準備が出来ましたから」

「動物を飼い始めたら、死ぬまで面倒を見なければいけない。たとえ性格に難があったとしても飽きてしまったとしても。それが大前提だ。良識はある。だから箱に入れて空き地に捨てることはしない。死が二人を別つまで――さ」

 中禅寺の面白くも無さ気に云い放つ鉄面皮に、流石の鳥口も中禅寺は冗談を云っているのではないと悟った。すると、一旦は収まった怒りが、得体の知れない嫉妬に味付けされて、腹の底から沸々と煮え滾って湧いた。

「そういうことって――僕の好きな人を捕まえて犬扱い、しかもあなたは飼い主だってんですか。冗談じゃない――僕はもっとマシな説明を聞きたかった。――じゃあ、じゃあ、関口先生と親交を持っているのは只の義務感だと? 面倒を見るのなら最後まで? ふざけないで下さいよ、だったらさっさとその飼い主の下らない義務とやらを放棄して関口さんを自由にして下さい。――僕がずっと彼の傍にいる為にも」

 鳥口は物凄い形相で、中禅寺を威嚇したが、中禅寺は矢張りどこ吹く風である。
 鳥口はもはや冷静ではなかった。完全に脳天に血が上っている状態の鳥口は、自分が前言を覆した事を本気で口走ってしまった事に気が付かなかった。

「――本心が出たんじゃないか? 鳥口君。君はどう考えてもまだ関口に執心のようだよ。自分で白状したのなら世話は無いがね。僕は飼い犬の恋人にケチをつけるような飼い主じゃないんだ。好きなようにしてくれたら良い。僕に獣姦の趣味は無いんでね」

「――」

 中禅寺の言葉の意味は鳥口にとっては良い方向のものだが、ニュアンスや表現などとても容認できるものではなく、しかしそれでも込み上げてくる不快感を無理矢理押し殺して、鳥口はじっと中禅寺の声を聴き続けた。

「飼い犬とその飼い主は、お互いに利害関係が有って傍にいるようなものだ。幾ら仲が良さそうに見えて、心が通じ合って愛し合っている様に見えたとしても、それは幻想にしか過ぎない。その関係の重要な本質は何一つ見えていない事になる。――犬が飼い主を見放して家出をすることだってよくあるのさ」

「――関口先生と中禅寺さんの間には特殊な知人関係以外には何もなかった事は良く分かりました。では、中禅寺さんの表現で云うと、関口さんは今は家出とでも呼べる状況と判断して良いんでしょうかね、僕には判断しかねますが」

 鳥口は怖いもの知らずにも程があるという位に、皮肉をたっぷり込めて慇懃に云って退けた。

「関口は君の元にいたらしいからね。そうなるだろうか。君に失礼を承知でいうのなら、関口が君と付き合いだし、僕とは親交を絶って久しいという状況は――僕の影響下から抜け出したいと関口自身が考えた所為だとしか思えない。これは当て推量だが――別に君が関口にそうするように強要したことは無いのだろう」

 鳥口は無言を以て肯定に変えた。中禅寺は咥えた煙草の煙を燻らせる。

「この状態はね、関口の持病――と言っても差し支えないだろう、抑鬱病にも深く関係していることだ。関口は少年期から青年期にかけて鬱病を患い、それが直るとも直らないとも微妙な病状のまま、のらりくらりと今まで来てしまったのだ。
僕と関口が出会ったのが、丁度彼が鬱病を発症させた時期と前後する。鬱病に罹患する要因はなんだか知っているかい。原因は社会的なプレッシャーや、本人の神経質で真面目な気質、環境や、家系的遺伝なんかも数%は関係しているのだが――とりわけ少年期の鬱病の発生要因は家庭環境にあることが大半だ。曰く、虐待とかね――。子供時代に不可欠な愛情の欠乏、それが鬱病に罹る最大の要因の一つと言われる。
関口の家庭環境や、幼い時に何があったのかは尋ねたことも無いし、アイツが喋ったことも無いが、それは推して量るべし、というものだ。大体の推測は付く。関口の恒久的な鬱病の原因は、生まれ育った家庭環境にあるのは間違いない。関口の気質や脆弱性も勿論関係しているがね。そちらは鶏と卵で、家庭環境に問題があったから、脆弱性数値が高くなり気質にも影響が出て鬱病になったのか、それとも関口の気質がもとより鬱病になりやすいもので、家庭環境が引き金を引いたに過ぎないのかは分からないのだが。
で、鬱病患者の特徴の一つに、周囲の人間に対して、依存心が矢鱈と高くなるという事が上げられる。必要だった愛情を親から得られなかった子供が、ある程度大きくなってから、愛情を取り返そうとするのだ。身近な人間からね」

 ふう、と中禅寺は紫煙を吐き出して鳥口を見据えた。鳥口の反応を確かめる様に。鳥口はそんな中禅寺の視線を気にも留めず、わざとらしく自ら持参した茶菓子の草団子に手を伸ばし食んだ。一口目を飲み込んでから茶を啜る。鳥口の頭の中は、中禅寺の気に障る返答をどのようにして披露しようかという事が思考の半分、そして残りの半分は当然、中禅寺が唐突に語りだした関口の持病を取り巻く事柄だった。

「関口さんは、その愛情を求める先を中禅寺さんにしたと? 誤解なんじゃないですか。だって関口さんには奥さんが居る。奥方を差し置いてそれは無いでしょう」

「雪絵さんと関口が出会う前の話だ」

 そう云われれば、そうですかと引き下がるしかない。

「君も知る通り、旧制高等学校は数年前に廃止になった。鳥口君なんかは縁が無かった場所だと思うが、どんな場所だったのかは話には聞いているだろう。彼処は寮生であるのが良しとされているような、信じられない程の硬派というか馬鹿らしいというか、そういう風潮が美徳とされていたんだ。僕も関口も寮生だった。全寮制だったから否応もなく。
そこで僕と関口はお互いの存在を知った。僕は鬱病は心の、脳の病だと認識していたからこそ、関口を放っては置けなかった。関口は僕と出会って擬似的に愛情を得る事に成功したのだ。しかし、そんな状況が長く上手くいく訳は無い。必然的にお互い草臥れていくさ。鬱病が酷くなると、他人に依存している状況にも気が付かないし気にも留めないが、関口はずっと病状が重いという事ではなく周期的に良くなるんだ。それで、ハタと周囲の状況や、自分の位置づけを理解するのさ。依存していること自体が重荷に感じてくる。今回の家出は――いや、家出じゃないな。どちらかというと僕の放任に近いのか――、だからそれは鬱病が好転しているという一種のバロメーターだと僕には思えるのだ。
現在ある状況に、依存せず、生きようとしたんだろう、関口は。それはある意味、逃避でもある。関口は、自分とは全く違う人間が傍に居る、ということが、どれ程の影響をもたらすのか、良く知っている人間なんだよ。おかしな所で先鋭した感覚の持ち主だからね。現状打破のために、他人を使って自分の中で変化を作ろうとする。
今まで付き合ってきた人間は関口にとっては、愛する人、というよりも只の薬みたいなものだ。体質を変える薬のような。薬は関口とは性向が違えば違う程良い。違うほど良く効く。しかも、愛している人だと暗示をかければ、更に吸収できるものがある。――根底にあるのは関口の冷酷で浅はかな思考だ。巻き込まれた人間は哀れだとしかいえないね。無意識でそういう事をするから、関口は怖い。
今回は、一年ぐらいか。多分長く続いた方だ。でも結局、破局は直ぐ傍で口を開いて待っている。関口が無意識でも常にそんな気持ちでいるのなら、それも無理は無いことだ。何よりも、関口と、関口を好いて付き合った人間には決定的な温度差が生じる。関口には薬以上のものでは無いんだ。自分に寄ってくる男は。
しかし関口を求める男は、関口に恋愛感情を求める。恋愛感情で持って愛情をかえしてくれと迫る。最初から他人に与えるような恋愛感情なんて無い関口は、一体どうすれば良いのかと困惑する。付き合っている男は関口のそんな気持ちに気付く訳もない。しかも関口が困惑しているという事が分かったりすると――他に執心している人間が、関口には居るのではないかと、疑いたくなるんだ。それで雪絵さんだとか、僕だとかに嫉妬する羽目になる。可哀相だがお門違いも甚だしい」

「僕みたいに?」

「そう、君みたいにだ」

「――中禅寺さんの話は、耳半分に聞いておきますよ」

 中禅寺が、鳥口の苦し紛れの文句を聞いて、ふっと笑った。

「しかし、恋愛感情の有無は分からないが、関口は余程、鳥口君と付き合うということはプラスだったのかもしれない。もしくは関口なりに鳥口君の事を気に入っても居たのだろう。一年近く続いたのは、かなり長い。君が、強引な行動に出なければ、もう少し付き合っていられただろうに。残念だね」

「厭味はもう沢山です。食傷気味だ」

 と云いながらも、鳥口は中禅寺の言説に感じ入るものが有ったのは認めなければならないか。自らの経験が脳裏に浮かび上がるのを止められない。

「さて――。鳥口君が何を思っても君の自由だが、僕と関口の関係の全容を語ったつもりだ。何か質問は?」

 片眉を吊り上げて鳥口を一瞥すると、中禅寺は湯飲みに口付けて一口喉を鳴らして飲んだ。

「――」

「諦められそうかい、関口を。――あの男を想っていても、良いことなど一つも有りはしないというのに、実際、君も馬鹿だよ。あれは都合良いように忘れてしまうというのに。多少、時が経てば」

 中禅寺から関口の過去を聞き出しても、何も、何一つ、すっきりしなかった。逆に余計に混乱して判断力が鈍った。

「――危惧していたような関係に二人が無いのなら、僕はもう、それで」

 納得しました――とは言える訳が無い。

「それで? 君はどうするつもりなんだ」

 中禅寺の言葉に、鳥口は急に夢から醒めたような表情をした。
 鳥口は中禅寺のことばかりが気に掛かっていて、肝心の自分がどうしたいのかを失念していた。それも仕様のないことで、つい数時間ばかり前に関口から面会拒否を喰らい、それで鳥口の中で一旦関係は終了している。中禅寺と関口の関係について疑問を晴らしたい一心で京極堂を訪れてはみたものの、それから先を全く考えて居なかったのだ。

「どうする――どうするって――また、関口先生の担当に戻るだけです」

 と喋ってしまってから、関口から担当替え願いが出ていたのを思い出した。関口の機嫌を取ることは面会拒否を喰らってしまったので出来なかったのだから、もう接点が無いも同然なのも――。しかし悔しいから、中禅寺にはその事を告げる気は無い鳥口だった。

「何か、文句とかありますか? 飼い主さん」

「――人の恋路だ。口を出す気など元より僕にはないが――随分一生懸命な君を見ていると、僕も一つ教えてあげるべきなのかと、思い始めてね」

 中禅寺は至極口調静かに言った。

「どうやら、今日は厄日のようですね」

 鳥口は一言口にすると押し黙った。

「君も知っている身近な人間に、昔関口とそういう関係だった男が居る」

 中禅寺の言葉を表層だけ理解した鳥口は、鳩が豆鉄砲を食らったような表情をして、何か云い掛けた唇の形のまま固まった。

「しかもそいつは僕の知っている限り、関口と一番長く付き合った人間だ」

 鳥口の思考速度は減速する。エンジンの回転数が上がれば、直ぐにでも最悪の人物に思い当たる予感がした。予感が現実になるのを必死に食い止めようともがく結果、愚鈍になる。だから――黙るしかない。

「旧制高等学校三期生から帝大、雪絵さんと付き合いだしても、切れることなく続いた。流石に今は、どうだろう、そんな風ではないが」

 鳥口が絞り出した声は酷く掠れていた。

「それって、今は化学教師とか、満州で戦死した人等と関口さんが付き合っていた期間も、その人と関口さんは関係していた、ということですか」

「簡潔に二股と云ってしまったらどうだ? もしも関口に、二股を掛けるなんて酷いヤツだな、何て云ってみてもあの男は全力で否定するだろうな。何故なら関口はその男と正式に付き合っているつもりなど全く無いからだ。関口にとっては、相手が戯れの延長として寄ってきているとしか思えなかったのだ。だから甘えたい時は甘えて、寄り掛りたい時は寄り掛かれる、そういう存在だった。鬱陶しい時は跳ね除ければ良い。都合よい風に聴こえるかもしれないし、実際都合が良いのだが、関口には気負わせない関係というものが一番長続きするというのを、そいつは知っていたんだ。確信犯だな」

「今は、そんな風ではないって云うのは――」

「只単に、今の関口には雪絵さんが居るからね。そんな必要が無いんだ――と僕は思っていたのだが、今はもう別れてしまった様だが、君と付き合いだした事を考えると、そうとも言い切れなくなった」

 鳥口は下を向いた。別れの言葉は交わしたのか交わさなかったのか。それでも、どう考えても終わってしまったのだ。そして、鳥口は薄々、話題の人物の容貌が浮かんできてはいるが、名を聞きだすのを躊躇う気持ちが、強く働いていた。

「そいつは、我が強そうで居て、重要な部分は常に関口の気持ちを重視した。そしてそれを関口に悟らせなかった。だから続いたんだよ」

 ああ――もう、その人の顔が浮かんでしまって頭から離れない。鳥口は内心で呻いた。
 関口と中禅寺が旧制高等学校生だった頃を知っていて、今も二人が付き合いのある人間。腐れ縁だ、言うなれば。それでいて鳥口とも顔見知りの人物。そんな人間は一人しかいない。長身、眉目秀麗、明晰な頭脳、天衣無縫の振る舞い、奇人、探偵――。

「榎木津だ。気が付いただろう?」

 ああ。今度こそ鳥口は口に出して呻いていた。中禅寺は死に神めいた顰めっ面をした。

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