― 6 ―

 私は、一人の空間が厭になって家を飛び出していた。雪絵を追う頭など全く無く、只飛び出した。
 酷い眩暈に、曲がりくねった視界。大量発汗。吐き気。心臓が脈打つ音が耳障りでならない。
 何も考えていない人間は犬より悪い。歩くことさえ侭ならなかった私は、直ぐに地べたに座り込んだ。
 息が荒い。耳障りな音で生きている事を実感しなければならないなんて。
 喉が渇いた。下らない人間が水を飲むのは資源の無駄じゃないか?
 気持ちが悪い。ああ、多分足の先から腐りだしている所為だよ。
 雪絵に謝りたい。今更何を? 謝るくらいなら消えてしまえ。
 思い出す――いや、忘れたことなんて、本当はなかった。巣鴨癲癇病院に通っていた時の事を。
 ただ、道を訊いただけだったんだ。分からなかったから、普通の人の振りをして紳士二人に尋ねたんだ。
 すいません、お尋ねしますが久遠寺医院はこの近くでしょうか。――おや、お兄さんよそ者かね。この界隈で知らない人はいないよ。通院かい? ――西の方から来たみたいだね。見ていたんだ。――西、まさか西の医院から来たのかね。――西といえば巣鴨癲癇か。逃げてきたのじゃあるまいな。――おお、狂いか。可哀相に。――狂いか。ならば下界は怖かろう。早々とお家へお帰り。――あはははは。
 私は二人の紳士の哄笑に耐えられず、逃げ出していた。西の医院、と出た時からもう既に私は自分の正体を見破られるのではないかと必要以上に怯えていたのだ。その態度があの二人に答えを提示していた。彼らは面白がっていただけだ。分かっているのだ、そんなことは。だが――今でもあの二人の嗤い声が、まざまざと耳の奥で蘇る。姿は覚えていない。真っ黒なシルエットしか。真っ黒なものが、今みたいに私に、今みたいに私に、話し掛けていた――。
 黒い影が親切そうな声を出して家に帰れという、そんなのは御免だ。だって誰も居ないんだ、彼処は。独りは厭だ、厭な事を思い出さないではいられないから。黒い影はどうやら私を知っているようだった。私の名前をしきりに呼んでいる。そして私の腕をとって歩かせようとする。――どこに連れて行かれるんだろう。巣鴨かしら。――厭だ。彼処に戻されるのも厭だ。
 どうにか、黒い影の腕から逃れてまた地虫になろうと膝を付く。黒い影が一体どこに行きたいんだ、と云った。どこだろう。知らないよ。また腕を取られた。今度は逃げられないほど強く捕まれて。
 声は神田に行く、と云った。私は訳の判らない幻聴だと思った。神田になんか、何も無い、のに。またその後、声は何かを云ったが、良く分からなかった――。

 益田が関口を抱えて薔薇十字探偵社に帰ってきたのは、午後三時半過ぎだった。
 ひ弱さを自ら演出して、暴漢から身を守る術を体得している益田が、人を担いで帰ってきたのには、薔薇十字探偵社の給仕兼秘書の和寅こと安和寅吉も、コーヒー豆を挽きつつ台所から飛び出してきたほど驚いた。しかし驚いた理由はもう一つある。
 浮気調査に出た筈の職業探偵に担がれていたのが、一年ほど姿をみせなかった作家先生だったのだのである。

「た、ただいま…っ帰りましたっ…!」

 呻きながら重いとばかりに益田は客用ソファーに関口を寝かせた。関口の意識は無いようだった。和寅が一体何があったのと、野次馬根性を丸出しで、益田に寄って来た。

「あー、階段が地獄の苦行のようで、何度振り落とそうと思ったか――。いや、道端で行き倒れてたんですよ。関口さんが。見て見ぬ振りして面倒な事になったら厭だったので拾ってきたんです。この人、明らかに様子が怪しくてね」

 と首を回しながら益田は言った。

「家に帰るのが厭だというから、こうやって連れてきた訳で。なんてんです? 僕って元警察官じゃないですか。僕の熱き正義感が燃え滾ったというかぁ」

「当たり前だ。倒れている人を見て見ぬ振りでもして死んでしまったら、正義感が燃えている、どころじゃなくなるよ。下手すりゃ人殺しだよ。それにしてもずっと顔を出さないと思ったら、道端で倒れていたところを拾われるなんて、相変わらず難儀な先生だね」

「うーん、何かあったのかな」

「それで、作家先生をどうするんだい」

「取敢えず、目を覚ますまで寝かせておいた方が良いだろうね。目を覚ます前に一応、奥方に連絡を入れておこう」

「――こんな旦那じゃ、夜もおちおち寝てられないんじゃないかねぇ。本当にあそこの奥さんは可哀相だ」

 ワイドショウを眺めて呟く専業主婦の様な台詞を残して、和寅が持ち場の台所に消えようとした時、益田が呼び止めた。

「あ、和寅さん。あの、ウチの先生は?」

 恐る恐る尋ねる益田。豆をガリガリ挽きながら答える和寅。

「先生は昼寝中。――残念な事に三時のおやつの時間だからもう直ぐ起きてくるだろうね」

「――はああぁ…」

 落胆の表情を浮かべ深い溜息を吐いて、益田は奥のドアを見詰めた。
 益田の視線の先が、この榎木津ビルジングの持ち主で薔薇十字探偵社の探偵、榎木津礼二郎が眠る私室である。事務所内が静かだったので、榎木津は出掛けたのではないかと期待していた益田だったのだが、その期待も儚く散った。

「あのおじさん、関口先生が帰るまで眠っててくれないかな。どうもあのおじさんが関口さんを見付けると煩くてかなわないんだよ。それにあのおじさんの事だから、そっと関口さんを寝かせておくなんて万に一つも無いだろうし…」

「なるようになるんじゃないの。関口さん、関口さん…あった」

 和寅は榎木津のデスクの上に置いてある黒電話の受話器を上げた。
 台帳を見ながらダイアルを回してゆく。益田は毛布を持ってくると、ソファの上の関口に掛けてやった。どんな夢を見ているのかは知る由も無いが、珍しく眉間に皺が寄った関口だった。
 寝苦しそうなので、シャツのボタンを一つ外してやる。和寅は受話器を耳に当てたまま黙り込んでいる。呼び出し中のようだ。

「そうだ、益田君、関口さんをどこで拾ったのさ。それが分からないと奥方に説明の仕様が無いよ」

「中野です、っていうか本当に関口さんの家から五分くらい歩いたところにある道端ですよ」

「――近所ってことで良いな」

 それから、一分近くも和寅は呼び出しで粘ったが、結局、関口の妻雪絵が電話口に出ることは無かった。

「お留守のようだ」

 受話器を置いて和寅は言った。

「買い物かもねぇ。この時間帯だし」

「そういえば最近、奥方は働きに出ているんじゃなかったか。居ないのも無理ないなあ」

 何故、他人のうちの事情をこと細かく知っているのか、と益田は云いた気な表情をし、書生風の野次馬秘書を見て溜息を吐いた。

「まあ、一人は厭だ――みたいなことを関口さん言っていたしなあ」

「なんだそりゃ」

「譫言だよウワゴト」

 投げやりな態度で益田は云うと、応接セットの菓子入れに手を伸ばし、煎餅を一枚取り出して齧った。ぼりぼり音を立て噛み砕き飲み込んでから、関口を見詰めて云った。

「家に帰りましょうって云ったら、厭だって。そういうんだもん。公園に置き去りなんて出来ないしさあ、連れてきたんです。最初から歩けるような状態じゃなかったんだけど、まあ何とか引き摺るようには歩けたんですけどね。途中からもう、完全に駄目で。なんか意識が向こう側に行っちゃってるみたいで、本当に連れてくるのに一苦労でしたよ。こりゃあ関口さんが目を覚ましたら、一杯苛めなきゃ割に合わない」

 益田はそう云うとケケケと笑った。
 そんな益田を和寅は汚いものを見るような目付きで眺め、台帳を抽斗に仕舞い、台所へ戻ろうとした時、和寅の背後で、何かを叩き付ける様な音がした。益田と和寅は同時にギョッとして、和寅は背後を振り返り、益田は反射的に視線を走らせた先に――

「何がケケケだっ! このマスカマっ! 一つ人助けしたぐらいでお前は見返りを求めるのかっ。だからマスカマはいつまで経っても下僕最下層なんだっ。お前なんか炭鉱に送られて生き埋めになってしまえ! それが世の為人の為だ!」

 くだんからの噂の主、榎木津礼二郎が私室のドアの前で仁王立ちをして益田を睨んでいた。益田は不意打ちを喰らい瀕死寸前に陥った。
 和寅は榎木津が実家に居た時からの使用人なので慣れたものである。先生は紅茶にしますかい、と確認をとりながら澄まし顔で居る。

「え、榎木津さん、聞いてらしたんですか…」

 クリーム色をしたVネックのセータに、紺のコールテンのパンツ姿の榎木津は探偵と書かれた三角柱の置かれたディスクの椅子に、どっかりと腰を下ろした。

「聞いてないよ。マスカマの話なんか。只耳障りな言葉と笑い声がしたから出てきただけ」

「――起きてたんですか?」

「起きていたともっ! 今日はどんな服装にしようか三十分前から悩んでいた所だ。和寅。おやつ」

 益田は情け無い顔つきになって、手に持っていたまま忘れていた煎餅を思い出したかのように、バリバリと食べた。

「今日はプリンです。それはそうと先生、昼前に着ていた服はどうしたんです? あれで良いのでは?」

「和寅は馬鹿だなぁ。探偵の僕が、服装を頻繁に替えないで誰が替えるって言うんだ?」

「そうですねぇ。はい、紅茶はここに置きますから」

 和寅はあんまり深く考えないことにしているのだ。榎木津の言動に対して。しかし益田はそうはいかない。会話に加わらず、聞いているだけでも頭の中が疑問符の嵐である。
 益田は、早々に浮気調査にでも出かけた方が良さそうだと踏んだ。プリンに夢中になっている榎木津の目を盗むように、益田は立ち上がり、コートに手を掛けたところで不意に榎木津に声を掛けられた。

「マスカマ」

「は、はい? なんでしょう」

「なんでそこにサルが寝ている? 久々に見る」

 猿――とは、間違いなく関口巽のことである。
 益田は溜息を吐きそうになってそれを飲み込んだ。何て説明したものか。榎木津がこちらの頭より、少し上の方を凝視しているものだから、なんだか余計に説明がしづらい。

「えっと、それはですね――」

「なんだ――拾ったのか。分かった。行って良いぞ」

 益田が説明する前に、何かに一人納得した様子で、益田に対し途端に興味をなくしたらしい榎木津は、またプリンに戻った。
 益田は一瞬呆気に取られたが、直ぐに了解して薄手のコートを手に取った。まだ秋になったばかりで昼間は温かいが、流石に夜中は肌寒い。
 緑色のハンチングを目深に被ると益田は行ってしまった。和寅がその姿を見て、おいおい昼間っからその格好じゃ目立つだろう、と突っ込みを入れたいところだったが。
 榎木津はプリンを食べ終わると、紅茶を啜り、何か物思いに耽っているように静かになった。和寅の存在は全く無視されていた。
 榎木津は長い体を投げ出すように、椅子に座りながら肘を窓枠に掛けて外を眺めている。
 部屋の掃除をしながら、なんだが様子が何時もよりも怪しい、と榎木津の奇行を気にしない流石の和寅がそう思い始めた時、榎木津が椅子から立ち上がった。

「せ、先生…? どうしたんでやすか?」

 和寅は思い余って声を掛けた。榎木津はそれでハタキをもって掃除をする和寅の存在を、思い出したらしく和寅を見てああ、と声を上げた。

「和寅。そうだった、忘れていた。豆腐頭の所にお使いだ。この前アイツの部屋に呑みに行って、障子と襖を蹴破って帰ってきたから。五枚ぐらい。豆腐頭は貧乏だから直しておいてくれ。きっと泣いて喜ぶ」

 最近、電話越しで榎木津に怒鳴っていた木場を思い出した。そういう事情だったのか。と和寅は合点がいった。そして、確信を得た。

「――ってえことは。現在、木場の旦那の部屋には仕切りが無い状態ってぇ事ですかい」

 不憫な――口に出す前にその言葉を和寅は飲み込んだ。

「ん。まあ、そういうことになるかな? 風通しがよくなって健康には良いだろう。それでだ、期限中に直さなければウチのガラスを割りに来るそうだ」

「また…物騒な。期限中っていつです?」

「三日以内って話だったから、今日中ってことだな」

「きょ、今日ぅぅ?!」

 和寅は素っ頓狂に叫んだ。そして脳裏には、木製バッドを持って榎木津ビルヂングに乗り込む屈強で、しかも見知った警察官の姿が・・・。

「だからお使いに行ってくれと云っている。しっかし、警察の癖になぁ。もしも来たら僕は豆腐の頭を華麗に割るのだ!」

 返り討ちぃー、と云って榎木津は笑った。しかし和寅は笑えなかった。笑おうと思っても、引きつった。榎木津と木場の喧嘩は物を破壊され怒号が飛び交う。出来るなら係わり合いになりたくない。その場に和寅が居なければならないとしたら、巻き込まれて憤死、なんていう可哀相な最期を迎えたとしたっておかしくない。
 和寅には榎木津の言う事を聞く以外の道は、残されていなかった。

「わ――わかりました、行って来ますよ。木場の旦那なら本当にやりかねないからなぁ…」

 ぶつぶつと文句を云いながら、和寅は益田が使っていた湯飲みを下げに台所に入った。榎木津は一転、興味なさそうに冷えた紅茶を啜り、眉を顰めると、「和寅、お茶淹れて」と大声で叫んだ。
 紅茶を淹れた後、身支度を終えた和寅に榎木津は、直すまで帰ってこなくて良いから、と当然のように云い、和寅は半泣きになりながら、薔薇十字探偵社を後にした。

 事務所内には榎木津と、ソファの上で丸まって休んでいる関口の二人だけになった。榎木津はディスクの椅子に座ったまま関口を遠めに眺め、じっとしていた。

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