― 7 ―


 二人の間に、会話が無くなっていた。鳥口は云うべき言葉を見失っていたのだ。中禅寺は読書を再開している。
 関口さんと――榎木津の大将が――。
 鳥口は思い知っていた。自分の目先はどれ程曇っていたのか。それでも自己弁護は欠かさない。しょうがないと思っている。何しろ話しによれば、関口と榎木津が出来ていたのは、戦前であり、戦争を挟んだら自然とその関係は終わっていたということ。だから、自分と付き合っていた時は、二人はなんでもない関係だったのだ。関口を変に疑って、ぶち壊したのは自分だ――とここまで来て、自己弁護さえも、まともに成立していないと気が付いて、鳥口はもう自身が磨耗していると覚った。
 和紙を捲るような、湿ったような音がする。中禅寺が和綴じの本を読んでいるのだ。確かその本は、何度も何度も読んで暗記しているほど読んでいる筈なのに、また読んでいるとは、呆れた書痴、と関口が云っていたのを思い出した。自分の記憶を振り返れば、必ず関口が出てくるのは、何故か。半分かそれ以上最早、思い出となってしまっているのか。そうじゃない、僕はまだ好きなんだ――。

「――少し、時間を置いたら良い」

 鳥口がその声に顔を上げた。中禅寺が字面を追いながら喋っているのだ。

「鳥口君にとって、幸いかどうかは判らんが、榎木津の現在の興味は関口から離れているようだしな。僕が今日話した事を覚えていて、且つ一年かそれ位待ってみれば良いのだ。それでもまだ関口を好きだったのなら――また、誘き出せ。あの男は、致命的に押しに弱いから。――今更、奥さんがどうのとか、過去の男がどうのとか、悩む君じゃないだろう?」

「なんで、アドバイスなんてくれるんです――」

「なに、理由は簡単だ。今まで、関口と付き合って別れ、僕に話を聞きに来た男の中で、また関口と付き合おうとした男は居なかったのさ。僕が関口についての重要な事を教えてあげたというのに、それを活かす奴が居なかったんだ。関口と、関口への幻想とのギャップに耐えられなかったんだろう。しかし、君は、諦める表情じゃない――」

「――」

「なら、僕がアドバイスをしておいて良い方向に事が運ぶようなら、良い事尽くめだろう。何より、僕に掛かってくる迷惑が格段と少なくなる。――雪絵さんには悪いが、関口にとって雪絵さんは別格だからな。比べるべくも無いことなのさ、関口にも」

 君にとってもね、と云いながら中禅寺はじっと鳥口を見据えた。雪絵は、鳥口が羨ましがるには――敵視するには――土俵が違うと云う様に。

「雪絵さんは別格ですか」

「当たり前だ。君も関口を好きなのは良いが、そこを履き違えるなよ。関口に雪絵さんを天秤に掛けるような事を要求してみろ、あっという間に君の存在は彼の意識下から締め出されるよ」

 そういえば、思い当たる節があった。考えてみれば、知らずとはいえ様々な地雷を踏んでいたらしい。

「雪絵さんは奥さんですしね」

「当たり前のことだがそれが重要だ。あの関口が結婚した女性だよ。関口にとってはとんでもない覚悟か、済し崩しかどちらかだろうが彼女と添い遂げると決意した、その事実は変わらない。一つ言えることは、雪絵さんに嫉妬したら只の愚か者だということだ」

 中禅寺の忠告は癇に障るものの、正直有り難かった。だが、鳥口はまだ、答えを出してはいない。それを正直に中禅寺に伝えた。

「中禅寺さんの忠告は有り難いですが、一年間待つ以前に、まだ僕は答えを出せていない。僕は愛情も返して貰えないと判ってしまった。それなのに平然として関口さんと付き合える訳は無いじゃないですか?」

「君も都合良い事を。大体愛情ってなんだと思うんだ? 是非教えてもらいたいね」

 鳥口は水を差し向けられて、なんて云おうか言葉に詰まった。しかし――関口にこうして欲しいという欲求なら、あるのだ。

「――愛情は、愛情ですよ。なんだろう、一般的な愛情表現で充分なんです」

「関口からの? 無理な話だな。別に関口は君の事を愛してた訳じゃないし、鳥口君もそれは知ってただろう。それなのに、それを関口から求めると。嘘でも良いのか。同情でも? それにね、月並みな事を云うが、愛情を返して貰えないと君は人を愛さないのか。何か、随分と、打算的だね。君の愛は。ずっと与え続ければ良いじゃないか。君の云うところの愛情を。君は何を望んでいるんだ? 関口が君を受け入れていた――それ以上のものが、どうして望めるんだ。再三云っている様に、関口が本当に愛情を向ける先はちゃんとあるんだ。それは元より君が承知していたことだろう。関口はそれでも君に色々と許した。これ以上何を求める? 向ける愛情は雪絵さんに行き、その残りを君が貰っていた。それが最上じゃないか。――君にその先は無いよ」

 畳み掛けるような中禅寺の言葉を聞いて、鳥口は思い出していた。一度だけ、関口が鳥口に呟いた言葉がある。
 関口先生は細い声でこう云ったんだ。――僕みたいな男より、敦っちゃんのような可愛らしい女の子の方が、好青年の鳥口君にはぴったりだと思うよ。――未来も有り得るよ。
 僕はそれを聞いて悲しくなった。――先生は僕のことが嫌いですか。だからそんな事を云うんですか。
 その僕の言葉を聞いて関口先生は困った風な顔をして、少し躊躇ってからやっと、――嫌いじゃない。そう言ったんだ。嫌いじゃない――。嫌いじゃない。良く関口先生が言ってくれた言葉だ。だけど――一度も、好きだと言ってくれたことは無かった――。
 そうだ、だからあの時、中禅寺さんよりも奥さんよりも、僕を優先して欲しかったんだ。――いや、そんな事、内心じゃ何時も思っていた。関口と最後、物別れに終わったあの時、僕が誘った通りに、関口が社宅に一時間でも三十分でも良いから居てくれたなら、充分、僕は満足できただろう。
 ああ、また一つ、余計な事に、思い至ってしまった。

「――中禅寺さん。僕は馬鹿です。馬鹿なんです。関口先生と別れる原因を作ったのは僕で、雪絵さんや中禅寺さんに嫉妬している事実を、関口先生に見せ付けて迫ってしまった。関口先生に、京極堂とは只の友人であり、雪絵よりも君の方が大切だって――嘘でも良いから証拠が欲しかったんでしょう」

 中禅寺が云うように、それは決定打だった。やってはいけないことだったのだ。また、中禅寺に馬鹿だといわれるだろう――。

「僕は、関口先生から、証拠を得られなかった。僕の事を好きだという証拠を。僕は関口先生に一度だって、好きだと云われたことは無いんです。嫌いじゃない、とは云われたことはあるけれど。――言葉に出さなくったって良いから、証拠が、ね」

「そんなものを関口に対して求めるのは、馬鹿だとしか云い様が無いが――しかし、君の気持ちは、分かる」

 いつの間にか、和綴じを閉じていた中禅寺が呟くと、一転、眼光鋭く、居住まいを正した。

「僕は関口の尻拭いをする。だから飼い主なんだ。――君が望むのなら、僕は君が関口と付き合っていた一年近くの記憶を改竄しよう。関口と居た時間を抜き出し、関口じゃない人間と居たようにすることが出来る。多少、無理が掛かるかもしれないが、君に気が付かれない程度に最小限に抑える自信が僕には有る。関口のことで心を悩ます必要は無くなる。君は記憶上、関口に軽い恋心を抱いていただけになる。なんなら、その感情ごと抑えてしまうのも、やぶさかじゃないよ」

 何を、云われたのか、鳥口は一瞬理解しなかった。が、中禅寺の至極真面目な表情を見て事態を飲み込むことが出来た。咽喉を鳴らして唾を飲み込む。
 中禅寺は多分、本気だろう。そして僕が頷けば、それを手際良く綺麗に遣って退けてしまうだろう。それが中禅寺の怖さであり、優しさでもある。
 ――僕を慮っているのは、判る。
 窺い知れぬ所で、中禅寺は別に計略があるのかもしれないが、鳥口は中禅寺なりに自分を慮っているのだ。
 明らかに、関口の記憶を綺麗に消せば、僕は楽になれる。あんな男――どうしてこんなに好きなのか。確かに関口の事を忘れた方が身の為であり、中禅寺はそこのところを良く判っているのだ。

 付き合う前、関口が何度か口から洩らすように云ったことがあった。京極堂は優しいんだと。鳥口はどこら辺がそうなのか、思考を巡らす事さえなかったのだが――。
 だとしたら――関口の飼い主だと言い切るこの人の内心はどうなのだ。この人の優しさは厳しさだ。関口の面倒を買って出たのも――。中禅寺は良識があるから関口を捨てはしないと云い切ったが、それも良識というよりも優しさではないのか。良識がある人間は、往々に良識と照らし合わせてリスクが少ない道を選ぶものだ。それに――中禅寺に何の見返りがあるというのだろう。何も無いのは明白だ。しかも、しかもだ。

 向ける愛情は雪絵さんに行き、その残りを君が貰っていた。それが最上じゃないか――。

 この、中禅寺の台詞。関口の愛情は全て雪絵さんに行く。僕は彼の残った体を貰っていた。では。中禅寺は? ――中禅寺は、関口を庇護している。見返りも無しに。「死が二人を別つまで」 そう、どちらかが死ぬまで。
 愛情を返して貰えないと君は人を愛さないのか――。
 中禅寺は苛立たしそうに云った。その云いようは、中禅寺自身出来る事だから――云えるのだ。そう、そうだ。誰かを死ぬまで庇護すること、見返りなども求めず。その有り様は――愛する、という事に他ならない。

「鳥口君が、関口の事を忘れたいのだったらね。返事は何も今日しなくても良い。よく考えて欲しい」

 中禅寺はこちらを見据えたままそう云った。
 鳥口は目眩がするようだった。
 中禅寺は、関口からは何も得られないのを判っていた。何も残っていなかった。だから徹底的に与える側に回ったのだ。「飼い主」と自ら嘯いて、自らリスクを背負い、庇護し続ける。
 中禅寺は中禅寺なりに関口を。
 一生見守り続けると? どうしてそんな事が――何で、そんな――どこまで、深い――。
 馬鹿だ、僕以上の。愚かだ。不毛だ。これ以上無いくらい。そして哀しい。
 勘が当たりなら多分、中禅寺は全てそんな事、判り切った上で行動しているのだ。訳が分からない。どうしてそんな事をしなければいけないのか、理由はなんなのか、そんな言葉ばかりが頭の中を巡る、自身の俗物さに吐き気を催しながら、思考が何段階も違う中禅寺が憎くてたまらない。

「あなたは――自分の記憶を消したいとは、思わないんですか」

 勿論、関口の記憶について。涙が視界をゆるく滲ませた。鳥口は涙を堪える為に顰めっ面をして、中禅寺を睨んでいた。中禅寺はふっと微笑んだようだ。

「たまにね――記憶力が良すぎるものだから。僕は余計なことさえも覚え続けるんだ」

「じゃあ、僕もそうします。関口さんの記憶は消しません」

 ――負けてたまるか。この男に。
 中禅寺が関口を庇護し続けて、他人の余計な苦しみさえも背負って、他人の苦しんだ記憶を、いつまでも留めて置くという生き方をするのなら、僕も――決して、関口を忘れるもんか。消さない。誰が、消してなどやるもんか。僕はいつか、関口の在り方を変えてみせる。そして、彼の妻も差し置いて、関口の心を手に入れる。その時、ずっと見守り続けるだけだった中禅寺が、悔しがれば良い。
 無理矢理にでも、関口を奪えば良かったと、臍を咬めば良い。――いつか、後悔してくれ。

「――そうか」

 鳥口は中禅寺の差し出してくれた救いの手を払い除けたことになる。中禅寺は首を傾いで一言呟いただけだった。鳥口は下を向いた。いつのまにか、手の平が拳を作っていた事に気が付く。

 遠く、鈴が鳴る。鈴ではない。黒電話が中禅寺を呼んだ。

 帳場に置いてある黒電話が鳴っているのだ。失礼――と、中禅寺は腰をあげ、座敷から抜けた。
 鳥口はその姿を見送って、自分がもう此処にいる意味が無いと思った。
 諦めるどころが、執着が更に強くなってしまった。取り返しが付かないぐらい。只、関口が好きなのを確認しただけだった。
 中禅寺が戻ってきたら、お暇しよう。そして今度こそ、此処には来ないだろう。
 湯飲みは既に空だった。いつ飲み干したのか覚えていない。

 中禅寺は五分程して戻って来た。心なしか、表情が硬くなっているように思えた。鳥口がどうかしたのかと、中禅寺を見ていると中禅寺の方から口を開いた。

「雪絵さんからだ。関口が居なくなったらしい。それで、僕の所に来ていないか連絡したとの事だ」

 一瞬、鳥口は呆気に取られた。関口が居なくなったって――どういうことだ。

「関口先生が居なくなったって――今――もう五時っすか。昼過ぎに関口宅を訪問した時に、奥さんが出て関口先生には会えなかったけれど、ちゃんと居たようでしたが」

 外はもう既に夕暮れだった。鳥口は今その事に気が付いた。随分と長く、中禅寺と喋っていた事になる。

「ふん。そのようだな」

「しかし、関口さんも大人でしょう。少し大袈裟過ぎやしませんか」

「様子が普通じゃなかったから、雪絵さんも心配しているんだよ。耐え切れなくなって――雪絵さんは、関口から逃げるように家を飛び出してしまったらしい。頭を冷やすつもりで。一時間後に戻ってきたら関口はもう既に居なかったようだ」

 飛び出した――? あの奥さんも関口に耐えられなくなることが有るのか。僕ならどうだろう。僕は多分、平気だ。直ぐに関口を引き戻せる。
 しかし自負心も底々に、事情を知った鳥口も関口の身が心配になった。関口の行動範囲は狭い。しかも交友範囲も広いとは云い難い。探すのは簡単だが、そこに引っ掛からないとしたら――。

「警察から連絡が来てないから厄介になっては居ないようだが。雪絵さんには関口が帰ってきて入れ違いに為ったら更にややこしくなりそうだから、自宅に居てもらって、僕が他の友人に関口の行方を尋ねると請け負った。雪絵さんが説明した時間関係から考えると、君が帰って幾らもしない内に、雪絵さんは自宅から出て行ったということか。兎も角、僕は友人知人に連絡を取ってみよう。――君はどうするね」

「差し当たって、僕が今、出来ることなど何も無いのですが、迫った用事も無いですし――何かあった時の為に機動力として此処に待機しようかと。坂の下にダットサンも置いてますから、便利でしょう」

 様々な打算が入り混じった言葉だった。

「そうか。何かあったら、当てにしよう」

 中禅寺にそれが見抜けない訳が無い。中禅寺は皮肉に嗤って、また帳場に引き返した。鳥口も関口との接点を得る事が出来るかもしれないとした、自分本位で都合の良い行動を取った己を嗤った。
 中禅寺は、最初は敵で、途中味方になり、救い主と為ったが、彼がどうしてそのような行動を取るのか理解してからは、決定的な嫉妬を含んだ本物の敵となった。もう、彼に肚の内を見せる事も無い。随分な数時間を過ごしてしまったと、鳥口は、夕暮れを眺めながら思った。

 そういえば、最後に関口と別れた時は、夕暮れだった。・・・関口は今どこに居るのだろう。

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